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第4話
――妻。
神崎の脳裏に妄想が横切る。
つい先程までそれは『怯えるいたいけな少女とそれを弄ぶ悪鬼のごとき自分』のツーショットであったが、今や『見目はよいが無愛想な青年をどういただくべきなのか頭を抱える自分』のツーショットに摩り替わっていた。
「そ、そそ、それはまずいでしょう!」
いきなり慌ててバタバタと手を振りはじめた神崎に、柊は目を瞠った。
「いくらなんでも男の人をどうこうしようだなんて…ダメです!いけませんよ、俺にそんな趣味は――」
「なっ!?バ、バカーーーーーッ!!」
慌てふためき否定する神崎の姿をどう思ったのか、いきなり身を乗り出すと、ドンとガラスのローテーブルを叩いて柊が一喝した。
「そういう意味じゃないっ!」
「……違うんですか?」
押されて身を縮めた神崎が情けない声で問い返す。柊は強張った表情で大きく頷きながら、
「だからその、あれだ!炊事洗濯掃除!!どうせひとり暮らしなんてしたことないんだろ?この家にひとりでどうやって生活してくつもりだったんだよ!」
「ああ、なるほど」
怒鳴られて初めて納得し、ぽんと神崎は手を打った。
「そっちの意味の世話!」
能天気な返事に、柊はいっそう声を荒げた。
「当たりまえだろ!普通に考れば!」
「そうですよね」
「……楓が逃げ出したのは正解だったかもな…」
「すいません」
大きく息を吐いて肩を落す柊に、なんとなく謝ってしまう。
「まぁ、いいけどさ」
柊はなにやらぶつぶついいながら立ち上がり、逃げるようにキッチンに入った。
「コーヒー、淹れたら飲むだろ?」
「ええ、いただきます」
「多分、家事をやらせたら楓よりオレのほうが役に立つはず」
ちょっと自慢げな声がキッチンから聞こえてくるのに、神崎は少しほっとした。
怒らせてはいなかったらしい。では照れていたのか…。
「家事、得意なんですか?」
「まあ、うちは母親を早くに亡くしてるし。おまけに会社の先行きが暗くて、父親はそっちにかかりっきりで家のことは放置だったし。お手伝いさんがいた時期もあったけど、通いだと勤務時間10時17時とかだから、掃除洗濯はしてもらってある程度は自分たちでやらないと温かい食事は食べらんないから。自然とやらざるをえなかったっていうか…気がついたら覚えてたな」
「大変でしたね」
食器棚をあける音。
カップの触れ合う音。
「――そうでもないよ」
ほんの一瞬、間があいてから柊が再び口を開いた。
「妹がいたから。守ってやらなくちゃと思うと、やる気が出た。落ち込んでる時なんかも、お兄ちゃんしっかりって言われると頑張ろうって気になったし、いつも力づけられた。だから、オレはなにがあっても妹の味方になってやるって決めてるんだ」
だから今回も身代わりを買って出たということか。
他人事としてはいい話だ。神崎にとってはたまらなく理不尽であるが。
「いいお兄さんですね」
それでも一応はそんなことを言っておく。
「そんなことないけどさ」
トレイにふたつ、コーヒーカップをのせて柊が戻ってきた。
「どうぞ」
「いただきます」
無言のままふたりはカップを取り上げた。
神崎は私物を持ち込んだだけで、家財の一切合財は雨宮家側で設えていた。誰が用意したのか知らないが、可愛らしいペアのカップで飲むコーヒーはしんみりと神崎の心を潤した。
コーヒーカップが空になっても、神崎はしばらくそれを掌に弄んでいた。
柊は俯いて、やはり手にしたコーヒーカップの底を託宣でも見るかのように眺めていた。
「で、結局のところ暫くの間…俺たちは同居する、ということでいいわけですね?」
いいかげん沈黙に飽きが来て、そう声をかけると柊はびくっと身を震わせた。
「奇妙な縁ですが、よろしくお願いします」
「あ…そ、その、こちらこそよろしく、ってか…いろいろ、ごめん」
カップを置いて手を差し出してくるから、思わず神崎はその手を握り締めてしまった。
「それで、えっと…オレはその、今夜はここで寝るから!」
柊は自分が腰を掛けているソファを指差す。神崎は苦笑を浮かべながら大丈夫だと返事をした。
「寝室のベッド、使ってください。俺は自分の部屋で休みますから」
神崎の部屋には、仕事の合間にも休めるようにベッドが入っている。寝室のそれほど大きくはないが、ひとりとなれば十分すぎるほどの代物である。
よもや新婚初日から使うことになるとは想像もしていなかったが、とりあえず、「あってよかった」と神崎は胸を撫で下ろした。
「いやいやいやっ!いいって!!オレはここで十分!」
「なに遠慮してるんです。今日は疲れたでしょう、それでソファなんかで寝たら身体がぎしぎしで明日は起きられなくなりますよ」
「とんでもない!」
激しく首を横に振るの柊の姿に、神崎はつい笑いを漏らしてしまった。
「笑うなッ!」
「すいません。笑うのやめるから、ちゃんとベッドで寝てくれます?」
「それはっ」
躊躇いがちに見上げてくるのに、大丈夫だと頷いてみせる。
それでもやはり遠慮があるのか、
「でも、新品なのにオレがいちばんに使ったんじゃ、なんか申し訳なくって…」
「そんなことにこだわるタイプじゃないですよ」
神崎の言葉に、柊はまたも上目遣いに見つめてくる。
「………あの」
「はい?」
「もしかして…アンタってこだわりなく…オトコもいけちゃうクチ?」
意味がわからず首を傾げると、柊はすっと逃げるように視線を逸らした。その耳元がいくらか赤らんでいて、神崎はさらに首を傾げた。
「なんのことです?」
「……さっきはいきなりだったし、その気はなさそうなこと言うからさ。つい、そーゆーことはしないって言ったけど。もしかしてそっちもありの人なら、別にオレのほうはいいっていうか…それも仕方ないことかな、って思うんだけど…」
「?」
あまりにも抽象的過ぎて、神崎には意味が通じない。
「…だから、夜の部」
「ヨルノブ?」
まるで手品みたいに、一瞬で彼の顔が真っ赤に染まる。
「――夜・の・部!!!」
夜の部。
そう怒鳴られて、ようやく彼の言葉が意味を成した。
もちろんというかなんというか、床のお世話のことをさしているとしか考えられない。
最前はそれを想起してあれほど怒られたというのに、この急転直下はどうしたことか。
神崎は大慌てで、胸の前で大きくバツを作った。
「いけません!」
一瞬ぽかんと神崎を見つめた柊だったが、固まったみたいになっているその姿を見て次第に落ち着きを取り戻したのか、やがて片頬だけに小さな笑みを浮かべた。
「いけません、か」
「あたりまえです!」
神崎は思いきり否定、というか肯定した。
「そっか」
肩を丸めるようにして、柊はほーっと大きな溜息を洩らした。
「一応さあ、オクサンの代打で来てるからさ。実際そういうのもあるのか、とか考えてた」
「冗談じゃありませんっ!!!さっきも言いましたが、俺にはそんな趣味はありません!どうして代打で男を抱いたりしなくちゃならないんですか!」
「だよなぁ」
くすり、柊は小さく笑ったのだけれど、それはどことなく不安そうに見えた。
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