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第8話

 その日、柊は実家に服や荷物を取りに行くと言い出した。  花嫁失踪は突然のことだったので、当然ながらこの家に彼の為の衣類やら日用品やらはない。  着替えひとつ用意のない柊は、見れば昨日と同じ服を着ていた。 「じゃ、車出しましょう」  そうと言うと、柊は首を横に振った。遠慮しないで、と神崎は重ねたが、いっそう大きく首を振って見せた。 「今日のところは勘弁して、お願いだから」 「勘弁ですか?」 「おまえを連れて帰ったら…今度は父親が失踪しかねない」  なるほど。  結婚が嫌で娘が袖にした相手が、身代わりに差し出した息子を同伴して来たのでは居た堪れぬ気がするかもしれない。  神崎はそっと尋ねた。 「でも…身体のほうは辛く、」  ないですか、と続ける前に強い眼差しで遮られた。 「――すいません…」 「いや、謝るのはこっち。妹のしたことに言い訳はできないし、騙して式挙げさせたことも悪かったと思ってる。いつか、絶対に償いはするから」  伏目がちにして不機嫌そうに言うのは、神崎に対して引け目があるからだろう。  神崎は肩を竦めて見せた。 「まあ、政略結婚なんてそんなもんでしょう」 「………ごめんな」  妹をかたらって式を済ませてしまったことを、柊は心底申し訳ないと思っているようだった。 「気にしないで」  神崎のほうは逆に、それならそれでこの先遠慮なく外で遊べる、などとあっけらかんとした気分でいたぐらいだ。だが目の前で肩を落す青年の姿を見ていると、どうしてだかそんなことを考えるのは不埒なことのような気がしてきた。  ニセ花嫁であろうとも、彼は彼なり懸命に頑張っているのだから、花婿だって少しは誠意を見せるのが筋というものではないだろうか。そう、少しくらい優しくしてやったってバチは当たるまい。   優しく、なんてことを考える自分がなんだか照れくさい。  絆されてると自覚しつつも、ついつい顔が緩んでしまう。 「なにがおかしいんだよ」 「いえなにも…」  誤魔化すように3杯目のコーヒーを、神崎は口にする。  朝食の皿があらかた空になっているのに、なんとなくポツリポツリと会話が続き立ち上がるきっかけが掴めない。  柊も気まずいのか、何杯目かのコーヒーにミルクを注いでいる。 「とにかくさ、今日はひとりで行ってくる。ほんとにごめん、もうちょっと落ち着いたら…神崎さんも一緒に実家に行ってもらうようになるかもしれない」  だからもうその話は終わり、とでもいうような口調だった。神崎は、何か思いついたみたいに不意に眉端を上げた。 「わかりました。では柊さん、ひとつだけお願いがあるんですが」 「……なんだよ」  警戒もあらわな声音だった。 「ご存知だとは思いますが、私は神崎の姓を取ったばかりで、そう呼ばれるのにまだ馴れてないんです。もしよかったら『明雅』と呼んでいただけませんか?」 「ああ…」  その辺の経緯は知っているのだろう、別にいいけどと呟いてから、 「あきまさ、さん」  柊がおっかなびっくりそう言うのを聞いて、神崎は自然微笑んでいた。 「明雅…さん?」 「明雅、でいいですよ、柊さん」  そう?  柊は口の中で何度か明雅だの明雅さんだの、もそもそ唱えた後ぱっと顔を上げた。 「じゃ、明雅。これでいい?」 「ええ」  柊の声は温かい。  言葉使いこそ粗雑なところがあるが、そこにあるのが照れであるとか躊躇いであるとか、なんとなくわかってきた神崎に不快感はない。 「もう一度呼んでみて?」 「明雅」  もうずっと以前から彼にそう呼ばれていたみたいに、馴染みがよかった。  神崎が素直にそう言うと、柊のほうも、なんとなくそう呼ぶほうが落ち着きがいいように思う、と恥かしそうに告げてきた。 「あー、もうこんな時間じゃん!」  気がつけばとうに日は高い位置にきている。  先ほど洗濯機から洗濯終了をつげるアラームが聞こえていたのを、柊は微かに意識の端で聞いていたようだ。 「洗濯物干して、食器洗って…」 「俺がやるから、柊さんはもうご実家へどうぞ」 「なに言ってんだよ!そういうのこそがオレの仕事なの!!」 「だって。することないんですよ」 「だめ!」  頑なに首を振る。神崎はそれではと腕組みをして代替案を出した。 「柊さんが食器を洗って、私が洗濯物を干す。分担するならいいでしょう?」 「絶対だめだっての」  言い張る柊に、神崎は意味ありげに笑って見せる。 「でも、シーツの洗濯とかしたんでしょ?」 「な、なっ!」  思わず言葉に詰まる柊。  自分が顔を洗っている間に、大急ぎで彼がベッドからシーツを引き剥がしてきたのを神崎は知っている。 「夕べふたりで汚したんだから、私が干したっていいでしょ?」 「ふっ、よっ…!?」 「どっちらかというと俺が汚したようなもん、」 「だ、黙れ黙れこのヘンタイ!」  からかわれると顔が赤くなるのは毎度のこと。いきまいて怒鳴りたてる彼の薔薇色に染まる頬を見ながら、まあこんな新婚生活もありかと、密かに思ってみたりする。  結局、神崎は洗濯物干しの任務を確保し、柊は洗い物に加え、几帳面に昼食の支度をし終えてから実家へと戻ることになった。 「あんまり遅くならないようにする」 「ゆっくりしていらっしゃい」  自分の傍では心身ともに落ち着くこともできないだろう。せっかくなのだから少し羽根を伸ばして来れば良いと神崎は思うのだが、 「夕飯までには帰るから」 「いいんですよ、のんびりしてきて」 「んー。…わかった」  口ではそう言いながら、彼は夕飯までには帰宅してくるのだろう。  なぜかそう確信できてしまう。 「行ってきます。……あっ!オレはおまえを明雅って呼び捨てにするんだからさ、おまえもその畏まった敬語、やめろよな!なんか…こそばゆい!!」 「はぁ…癖のようなものなんです、」 「敬語!じゃ、行ってきます」 「…行ってらっしゃい」  そんな挨拶を、どうにかこうにか笑いを堪えて交わした。  柊がいなくなると、いきなり家の中がしんと静まりかえる。  ベランダではためくシーツを見ながら、今晩からは自分の部屋で寝ようと考える。  昨夜は疲れもあってお互いそのままベッドで寝入ったが、そうでなければおそらく彼は自分と一緒では寝つかれないだろう。  それに。  彼は心配していたけれど、悪くはなかった。  性交は確かに『証』のようにして柊から神崎に求められたけれど、苦痛ばかりに打ちのめされていただろう柊に比して、神崎に与えられたものは確かな快楽だった。  隣なんぞに寝ていたら、不埒な心が沸き上がらないとも限らない。  彼の目の前でそんなことを言ったら、平手打ちでも食らいそうだ。  あくまで、代理である。  ごく普通の専業主婦がこなす家事労働を彼がするというだけ。夜の部は除く、つまりハウスキーパーのようなものである。 「まあ、考えてもしょうがない」  まだ使い勝手の悪い家の中を整理し、柊が作っていったサンドイッチを食べ、そしてまた部屋を片付ける。  自分の部屋以外は余計なことをしないほうがいいと判断し、作業を切り上げるとやることがなくなった。  そういえば、と思い出しすっかり乾いたであろう洗濯物を取り込むことにした。  干すのと取り込むのはセットだろう。なら取り込んでもいいだろう、それとも彼が帰ってきたら怒られるか…少し考え込む。  まあいいか、怒られても。  神崎は自分が柊の帰りを心待ちにしているということに、いまだ気づいてはいない。

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