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第9話
「ただいまーっ」
彼が両手一杯の荷物を持って帰って来たのは案の定夕方だった。神崎は「お帰りなさい」と玄関まで迎えに出た。
「遅くなって悪かったな」
服だの靴だの身の回りの品だが詰まった袋を花嫁の部屋に放り込む。そこを自室として使うつもりだそうだ。
荷物の量を目の当たりにして、あんなにあるならやはり途中まででも車で迎えに行けばよかったと、神崎は些か後悔した。
「それじゃオレ、買い物行ってくる」
これから食材を買いに出て、それから夕飯を作るのだ、と柊は主張する。
「今帰ってきたばっかりで疲れてるのに?」
出前でも取りましょう、と神崎は提案してみたが、柊は首を横に振る。
「だーかーら、そういうのがオレの仕事なんだって。それに買い物しとかないと、明日の朝困る」
「必要なものを教えていただければ、代わりに…、」
じろりと柊が見上げてくる。
「だめ。おまえって買い物のセンスなさそう。キャベツとレタスの区別もつかなそうだもん。ってか…敬語!」
「……そんなこと、ない」
「いや絶対、間違えて買ってくるタイプだ。あっ!洗濯物取り込みやがったな!」
リビングの隅に畳まれたそれを見つけた柊に、予想通りに怒られて神崎は身を縮めた。
「柊さん…」
「なんだよ…あぁ、その柊さんってのもやめろ」
「えぇ!?…じゃぁ、柊くん?柊ちゃん?柊様…あとは、」
「バカか…柊でいいっての!で、なにか言いたいことあるんだろ、なに?」
柊の勢いに押され、神崎は弱々しく提案してみる。
「一緒に、行こう。買い物。荷物持ちくらいなら俺にもできる」
「おまえと?」
「そう」
柊の逡巡を見て取って、神崎は宥めるように言い添えた。
「どこ家のダンナさんだって、買い物の付き合いくらい行くでしょう。ついでに夕飯どこかで食べてきたって、」
「――だって…」
「柊、」
神崎は声に力を込める。柊が瞳を上げた。
「――でも」
「お願いだから、ね?」
困ったように眉根を寄せていた柊だったが、やがて渋々と頷いた。
先に立って歩いていた柊が立ち止まり、指をさす。
「ここは?」
近所の偵察がてら辺りを歩いて回り、柊が見つけたイタリアンレストラン。店前に出されたボードには、手ごろな金額のコースメニューがいくつか記されている。
「いいんじゃない、入ろう」
住宅街の中にこじんまりとある、あまり目立たない店だった。凝った造りではなかったが、家庭的な温かみがある。短いアプローチの両側は小さい花壇になっていて、季節ごとの花が楽しめるように手入れされている。
アガパンサスと早咲きの紫陽花が美しい。
やはり実家に戻って少しは息抜きになったようだ。柊は明るい表情で好き嫌いなく料理を片付けていく。
「美味しそうに食べるね」
「おいしいもん」
自分と一緒にいて美味しいと思って食事ができるのなら、まあ嫌われてはいないだろう。
そんなことを考えながら神崎は思いついて、
「また来ようか」
そう言ってみる。
思い付きで入った店だったけれど、雰囲気も味もサービスも十分に満足できた。彼とまた来てみたいと思うのは、別に嘘でもお世辞でもない。
「だな」
柊はあっさりと答えた。――ということは、彼は暫くは神崎と暮らす予定でいるらしい。
逆に言えば、すぐにでも楓が帰ってくるというような情報を、今日の雨宮家では聞き及ばなかったということだ。
暫くは彼との同居が続く。
ウェイターを呼び、追加でデザートを頼む柊の横顔をじっと眺める。
年齢相応の体躯よりずっと細く華奢だが、よく食べる。体質的に太らないタイプなのだろうか。若いゆえの代謝のよさか。
それに意志が強そうだが、長い睫毛を湛えた瞳は大きく猫のようだ。厚めの唇、若々しく締まっているがまろやかな頬のライン。――美青年、いや可愛らしい、が近いかもしれない。
言葉尻や行動は男らしいところがあるが、そんなとこも可愛らしい。
写真でしか知らないが、妹の楓とどことなく似ているようでまったく異なる。彼女はクールな印象が強かった。
ふと、昨夜の泣き顔が過る。眉をきつく寄せて苦痛を堪えていた様を思い出すと、切ないような痛みが胸にこみ上げてくる。
「なんだよ」
神崎の視線に気がついたらしく、柊にきっと睨みつけられた。
「記念日に来るとか、どう?」
取り繕うように提言してみる。
「記念日?」
神崎の言葉を子供みたいに問い返す。
「この店。特別な記念日に、また二人揃って来よう」
「記念日って、何のだよ」
そうだな、と一瞬だけ神崎は考える素振りを見せる。
「来年の結婚記念日」
「げっ!」
嫌そうに顔を顰める柊に、少しだけ寂しい気がした。
当然だ。
あくまで義務として身体を差し出しただけなのだから、柊にとっては記念日なんてバカなこと考える謂れはないであろう。
だが柊は、不服そうに宙を睨んで呟いた。
「結婚記念日じゃ…一年先になっちまうだろ。遠すぎるし」
なんだそっちが問題なのか、と神崎は少しほっとした。
「それじゃあ誕生日は?俺は7月、来月」
「意外、冬生れっぽい。で、7月の何日?」
「10日」
「納豆の日か」
言われると思った。だが柊はそれ以上突っ込んでくることもなかった。
「オレは11月22日」
「いい夫婦の日…」
「言うと思った、絶対」
「いいじゃないか、言ったって」
軽口を交えて笑い合う。
ふと、いつまで彼と一緒に住んでいるのだろうか、と考える。
雨宮家だって、娘の行方を捜さないわけがない。そのうち楓の行方は知れる。そうなれば、改めてじっくりと話し合うことになるだろう。
この結婚を白紙に戻すのが双方の利益にならないという結論に至るのなら、戸籍上だけの夫婦関係を続けていてもかまわないと神崎は思っている。
そうしたら『人身御供の花嫁代理』は必要なくなる。彼はお役ごめんとなるわけだ。
花嫁の身代わりなんて、本来そんなもの必要はない。食事なんて外食でかまわないし、在宅時間が短ければそうそう家も汚れない。ましてや色事については放っておいてくれたほうが寧ろありがたい。
だが、この青年は帰れと言っても帰らないだろう。神崎家と雨宮家を結びつけるのを自身の使命だと思っているようだから。
運ばれてきたデザートプレートに、柊は目を輝かせている。神崎への警戒心など微塵もなく、幸せそうにジェラートを口にする。
先ほど新居のマンションに「ただいま」と言って彼が戻ってきた時に、つられて思わず「お帰り」と答えていた自分を面映く思い出した。
「明日っから、仕事だろ?」
不意に柊がそう口にして、物思いに耽っていた神崎は現実に引き戻される。
「あぁ。明日が正式な初出社」
何度か様子見で立ち寄りはしたが、正式に社員として雨宮氏が営む会社に臨むのは初めてのことになる。
何しろ神崎の力を借りて、社は起死回生の正念場にある。後ろ盾としての神崎は必要だが、まかり間違って乗っ取られては、との危惧だって雨宮の側には当然あるわけだ。
お目付け役というか、敵地に乗り込む形になる神崎の立場はかなり微妙なものなのだ。
土曜日の挙式、日曜日の休養、新婚旅行もせず月曜から出勤するのも、そんな時間的余裕が取れないからだ。
「大変だな、頑張れよ」
柊の言葉に嫌味はない。
むしろ純粋に心配してくれているようで、神崎はついつい軽口を叩いた。
「頑張るさ。可愛い新妻の為にね」
「ばッ……!」
真っ赤になったと思ったら、テーブルクロスの下で思い切り柊に脛を蹴られて、神崎はぐっと息を呑んだ。
「ふざけんな!」
鼻息荒く言い渡し、柊はだっと立ち上がった。
「もう帰る!」
「待っ…しゅ…」
さっさとテーブルに背を向け歩き去る彼の後を、神崎は涙目のまま追いかけた。
会計を済ませて店を出ると、少し先の街路灯の下に、彼はぽつんと立っていた。
待ってくれている。
ふくれっ面でそっぽを向いて。だが、待ってくれている以外に考えられない。怒って店を出て行ったかと思えば、妙に律儀なところがあるものだ。
「お待たせ、柊」
声をかけつつ近づくと、返事もせずに顔を背けて歩き出す。
その後をついて歩きながら、おもしろい人だ、と神崎は思った。
純情で、真正直で、嘘がつけない。そのくせ臆病。さらには大胆。
だが一緒にいることがちっとも苦痛ではない。
それは同居するには大事な要件ではないだろうか。
肩そびやかす後姿に、神崎はふっと微笑んだ。
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