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第15話

 亭主は一番風呂。これまた一昔前としか思えぬ柊の主張には逆らえず、毎度夕食が済むと神崎はバスルームに押し込まれる。  その間に後片付けをしてしまいたいという柊の思惑がある。だから最初は抵抗していた神崎も、今はおとなしくそれに従うようにしていた。   「…お先に」  ふたり暮しだ。わざわざ報告しなくても、風呂を上がったかどうかは一目瞭然である。それでも一応、毎回声をかける。 「じゃ、オレも入ってこよ」  入れ替わりに風呂場に行く柊だが、その前に必ず冷たい飲み物が入ったグラスを神崎に手渡す。  その辺のタイミングのよさはまさしく計ったようで、お礼を言う間も与えずに柊はいなくなってしまう。  本当に気が利く。  グラスを手に、神崎は感心してしまう。  家に仕事を持ち帰ることも多く、申し訳なく思いながらも神崎は、柊の風呂上りを待たず自室に引っ込んでしまうこともままある。  そんな時、彼は疲れたころを見計らってお茶を淹れてきてくれる。  多少余裕があって、リビングでテレビなんかを見ていると「肩凝ってんだろ」とマッサージしてくれたりする。  昨今、ここまでしてくれる奥方はいないだろう。  思い出しただけで頬の緩む神崎だ。時代錯誤ではあるが、そもそも男なんて単純なものなので、かまわれて悪い気はしない。  空になったグラスを手に、眉を寄せて考える。  たまにこちらがサービスをしてもバチはあたるまい、と。  インスタントコーヒーと牛乳でアイスカフェオレを作り、柊を待つ。  茹で上がったように頬を赤く染め、彼はパジャマ姿でリビングに戻ってきた。 「あー、明日休みだと思うとリラックスするよな」  柊は神崎がリビングに残っているのを見て、嬉しそうに話しかけてきた。 「そうだね」  一日退屈をしていたという柊だが、神崎の出社にあわせて毎朝早くから世話を焼いてくれる。やはりそれなりに疲れているのだろう。  慣れぬ生活に緊張していた、といったほうがいいかもしれない。  毎日会社に出かけて忙しなく過ごしていた神崎に較べて、彼にとってこの一週間は時間があるからこそ逆にいろいろと考え込むようなことも多かったのではないか。 「一週間、お疲れ様でした」  カフェオレの入ったグラスを差し出すと、柊はびっくりしたみたいに目を丸くした。それから何度か瞬きをしてゆっくりと、瞳を細めた。  ああ、彼の瞳はものすごく美しい。淡い栗色、まるで琥珀のようだ。  初めて気づいたみたいに、神崎はそれに魅せられていた。 「ありがと」  グラスを受け取る彼の指が自分の指に触れた。形のよい爪だった。咄嗟に神崎がグラスから手を離す。  柊がそっと視線を上げた。 「明雅?」 「うん」 「ありがと」  はにかむみたいに小さく笑んで、もう一度言った。  まだしっとりと湿った髪から雫を滴らせ、ふっくらとした口元にグラスを運ぶ。喉を反らし、コクリと飲み干し、ふと眼を閉じた。  その首筋のライン、睫毛の長さ。  神崎は我知らず、息を呑む。 「……風邪を、ひく」  目を逸らすように、意識を逸らすように。柊が肩にかけていたタオルを取って、彼の頭に被せた。眉の辺りまで落ちかかるタオルを、柊は邪魔そうに持ち上げた。 「髪の毛、まだ濡れてるよ」  柊はくすっと笑って、カフェオレの残りを飲み干すと、 「よく怒られるんだ。ちゃんと髪拭きなさいって」 「誰に?」  柊はふっと顔を伏せる。それが、神崎の癇に障った。 「恋人?」  風呂上りの彼の有様を知る人間が他にいるのだろうか。だとしたら、なぜ自分はそれに対してこんなにも不快に思うのか。 「………妹だよ」  ご馳走様、とグラスをテーブルに置いて、ワシワシとタオルで髪をかき混ぜながら唇を尖らせた。 「楓に怒られた。お兄ちゃんはばずぼらだって」 「妹…楓さん、」  ほっとした。  瞬時に口調が柔らかくなるのが、自分でもよくわかった。 「仲がいいんだ、楓さんと」 「うん……」  被ったタオルで、口元を覆う。  些か精彩を欠いた眼差しだけが神崎に向けられる。 「もう一週間…楓のこと、なにも進展なくて、ごめん」 「柊」 「必ず見つけ出して、きっちりかた付けさせるから。ちゃんと謝らせる」 「いいんだ」  友人のところに居候を決め込んでいるのだろうと、順繰り当たっているらしいが、口裏を合わせているのかなかなか見つからないようだった。  会社で顔を合わせれば、柊の父も謝罪を繰り返してくる。  おそらく、それなりの機関を使って探せばあっという間に楓は見つかるだろうし、家に連れ戻すことも容易いだろう。  だが、楓は若い娘なのだ。将来的なことを考えても、あまり大げさにしたくない親心もわかる。  第一、家に帰ってきたとしても「オジサンとの結婚は嫌」という彼女の気持ちが変わらないかぎり、事態は解決しない。嫌がるお嬢さんを無理やりどうこうしようなどという気持ちは、神崎には微塵もありはしない。  寧ろこのままでもいいじゃないか、と思ってしまう。  男と女。一緒に暮らせば、やはりそれなりにアクシデントが起こるだろう。そういったものはこの結婚の主眼ではない。  実際、楓がいなくても家同士の繋がりを保つ名目上の婚姻はちゃんと継続しているし、会社のほうも神崎の庇護があれば、そう遠からず業績を回復できる。そうなれば彼女を名実とも自分の『妻』から解放してやることだってできる。  今だって柊をここに縛り付けておく必要など、本当はないのだ。  気持ちは十分もらったから。  妻の代理はもういらない。  ここにひとりで住んで、ちゃんと会社に行って、きちんと仕事をするから。  君は家に帰っていいんだ。  月曜日からは以前と同じく、普通の学生に戻って。  そう告げて、柊をこの不自然な立場から助け出してやればいいのだ。 「柊…あの、」  タオルの隙間からのぞく淡い色の瞳。  思い知る。  彼がいなくなったら…この家に帰ってきても、誰も「おかえり」と言ってくれない。  湯気の立つ食事も、一番風呂も、栄養バランスが整った弁当も、洗い立てのパジャマも。  全部なくなってしまう。  誰もいない部屋に帰ってきて、一人で夜を過ごすことを想像すると、胸が切なくなる。  寂しいとでも、いうのだろうか。 「明雅」  黙りこくってしまった神崎に、柊は静かに呼びかけた。  「楓のこと、悪いと思ってるんだ。本当に」  バスタオルを外す。生乾きの髪はひどく乱れていて、神崎は手を伸ばしてそれを直してやる。  柊はおとなしくされるがままだ。 「わかってるよ」 「でもオレ…今はそれだけが理由でここにいるんじゃない」  猫の子みたいに目を細め、じっと神崎を見上げてくる。 「身代わりとか、お詫びとか、そういうことだけじゃない…つまり嫌々おまえの世話を焼いてるわけじゃなくて、おまえが帰ってくるのが待ち遠しくて。でも、だからって楓が見つからなくてもいいってことじゃなくて…つまりその、おまえと一緒にいるのが、たの――」  余計な事まで言い過ぎたと思ったのだろう、しまったとでもいように柊は口を噤んだが、その続きを神崎は確かに聞き取ったように感じた。

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