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第16話

「楽しいよ、俺は」  神崎の言葉に柊は首を竦めた。   「君がここにいてくれることが、とても嬉しい。家に帰ってくるのが楽しみなんだ、柊。ほかの誰かじゃない。待っているのが君だから」 「つっ――!?」  タオルを握り締めた柊の手が、微かに震えていた。 「ほんと、か?」 「本当」  ほっとしたのか、柊が堪えていたような息を吐く。 「ありがと」  いつもの羞恥や困惑に真っ赤に染まるのとは異なる朱が、柊の頬にさす。照れくさそうな微笑みに、神崎は目を奪われる。 「おまえって、いいヤツだな」 「そんなことないよ」  君のほうがずっといい人。  心の中でそう返す。 「楓だって。……あいつ、写真も釣書も何にも見ないで、<オジサン>なんて決めつけて逃げたけど…明雅こと知ったら絶対、好きになる。逃げ出したこと、後悔するに決まってる」  口調はどこか拗ねたように聞こえる。   神崎はかぶりを振って否定する。 「そんなことない」 「あるよ」 「ない。楓さんの判断は正しい、俺なんて本当にただのオジサンで――」 「そんなことない!」 「あるよ」 「ない!おまえのこと好きにならないなんて、絶対ない!」  むきになって断言する柊に、神崎は戸惑いを感じずにはいられなかった。 「柊」  それなら、君は?  君は俺を好きになってくれる?  神崎は黙って、柊の薄く色づいた頬を見つめていた。 「………もう、寝る」  どれくらいそうしていたか。視線をもぎ離すみたいにして顔を背け、柊が沈黙を破った。 「そう、だね。この一週間、本当にお疲れ様」  土曜日の結婚式から始まって、疾風怒濤のような七日間だった。部屋を出て行く柊の背に「おやすみ」と声をかける。 「明雅」  ドアの前で立ち止まって。振り向かずに柊が呼んだ。 「なに?」 「えーっと、その…あれだな、毎日よく寝られてるか?」 「……あぁ、大丈夫だよ」  このところ、柊に起こされるまでぐっすりである。  少々みっともないと思うけれど、あの張りのある伸びやかな声で「起きろ!」とやられるのは、自分で目覚めるよりよっぽど快いのだ。 「おいしいご飯と元気な挨拶のおかげだよ。万事快調」 「そっか。それなら、いいんだけどさ」 「うん」  いやに歯切れの悪い柊の言葉に、神崎は首を傾げる。柊は顔だけ振り向いて、いささか固く笑顔を見せた。 「もしかして、だからその、なんてのか、た、たま、にはベ、べべべッドを」 「ベッド?」 「その!だからたまにはベッド交代してもいいかなとか。ほら、オレがでっかくていいほうのベッド独り占めしてんじゃん。なんかちょっと悪いかなーとか思って。明日休みだからさ。今夜、代わってやろうか?」 「大丈夫だよ。いやになるくらい熟睡できてる」 「…んじゃ、いいか。悪い、余計な事言って。おやすみ!」  手を振って部屋を出て行く柊の姿を見送り、相変わらずの取り越し苦労に申し訳ないと心の中で侘びを言い、神崎は小さな溜息をついた。  翌朝。  連日柊の元気一杯な『おはよう攻撃』で起床していた神崎だったが、さすがに土曜日まで起こされることなかった。嫌になるまで眠って、目が覚めると十時過ぎだった。  一応着替えてリビングへ行く。  柊はテーブルに向かい、なにやら本と首っ引きになっているところだった。 「あ、オハヨ。よく寝られたか?」 「おはよう。柊は――やっぱり早起きだったみたいだね」  ベランダには洗濯物がはたはたと踊っている。さわやかな青空に白いシャツが映えて、まるで洗剤のコマーシャルみたいだった。 「土曜日っても、ゴミ出しがあるからな。そうそう寝てらんない。それよか、朝ごはん食べるだろ?」  立ち上がろうとするから、神崎は両手でその肩を押さえた。 「いいよ、自分でやるから。これじゃ、ちっとも休みにならないだろ」 「でも…」 「座って」  少々きつく言い渡すと、不服そうながらも柊は浮かしかけた腰を戻した。 「コーヒーでいい……みたいだね」  キッチンには皿だのカップだのコーヒーメーカーだのが例によってふたり分用意してある。  すぐに朝食の支度ができるようにして、彼は神崎が起きるのを待っていたのだ。 「お腹空いてるね、遅くまで寝ててごめん」 「謝るな。べつに、オレが勝手に待ってただけだし」  パンとコーヒーのごく簡単な朝食。  テーブルに持っていくと、柊は慌てて本をどけた。 「勉強?」 「うん、一週間休んだじゃん。さっき友達に授業の進度を電話で教えてもらったからさ、少しさらっとこうと思って」  登校するつもりもなかったのに、ちゃんと教科書を持ってきていたのだ。  その真面目さに感心すると同時に、そんな彼に休学だの退学だのを選択させようとしていた自分を不甲斐なく思った。 「柊はしっかり者だ」 「んなことないけど」  がばり、とコーヒーを飲み干し、 「でも、ありがとな、学校のこと。まさかそんなことに気を遣ってもらえると思わなくて、驚いた。ものすごく嬉しかった。オレ、勉強頑張るからさ。絶対怠けたりしない。本当にありがとう」  笑う。幸せそうに。  その笑顔が眩しくて、神崎の胸に突き刺さる。  どういたしまして、とぼそぼそ口の中で答えるのがやっとだった。  いったいどうして彼はこう人を振り回すのだろう。取り乱して、戸惑って、自分はずいぶんとカッコ悪いんじゃないだろうか。  神崎もまた、柊にならうようにがばがばとコーヒーを飲み干した。 「おかわりいらない?今度はオレが淹れてくる」 「だめ」  すいと立ち上がろうとするのを慌てて神崎が止める。  「今日明日、俺は仕事が休みなんだから君も家事は休み。いいね」 「へ?」 「腹が減ったら自分で何か作るし、喉が渇いたら自分でなにか淹れる。だから君はのんびりゆっくりと過ごして」 「でも…」 「俺が休みなら、柊も休んで当然でしょう。毎日毎日、本当に大変だったろ。お疲れ様」 「だけど、」  当然のことを言っていると思うのに、柊は縋るみたいな目をして自分を見る。  なにかをしろと要求しているわけではない。しなくていいと気を利かせているつもりなのに。どうしてこんなに不安そうな表情をするのだろうかと、神崎は首を傾げた。 「月曜日からは、学生と奥さんの二足の草鞋で一層忙しいだろうし。骨休めをしとかないとね」  宥めるつもりでそっと手を伸ばして、髪を撫でた。  コクリと頷いた柊は、なんとなく萎れているみたいだった。 「………そんじゃオレ、部屋行くわ」 「え!?」  神崎の手から逃げるかのようにして椅子を立ち、背を向けたままそう言われて思わず声が裏返った。 「どっ、どうして急に」 「別に。ただ、なんの役にも立たないのにオレがここにいたら邪魔なだけだろ」 「じょ、冗談じゃない!どうして邪魔だなんて」 「休んでりゃいいってさ――もしかして鬱陶しいって思われてんじゃないか、オレ」 「柊!!」  神崎は慌てた。人生でこれほど慌てたことは今だかつてそうなかった。 「そうじゃない、逆!逆!」 「逆って。おまえが部屋に引っ込むのかよ」 「違うっ!!!!」  柊の隣に駆け寄って、がしりと肩をつかんで無理やり振り向かせた。 「俺は君に、傍にいて欲しい!」 「言い訳なんかいらない」  不機嫌そうに唇を尖らせて、ぷいとそっぽを向かれてしまう。 「言い訳なんかじゃない。俺が休みで、君だけ忙しいなんて嫌だから。柊にも休んでもらいたい。でも、なんにもなくても傍にいて欲しいって、そう思ってる。ダメ?」  柊は神崎から顔を背け続けている。 「――ダメ、かい?」  返事はない。今度は神崎が萎れる番だった。 「なら、俺が部屋に引っ込む。柊はここにいて」  柊の肩に置いた手を力なく離す。ほうっと柊が息をつき、ようやく神崎に目を向けた。 「ばっかじゃねえの!」 「ごめん」  神崎の触れていたあたりの肩口を、柊は自分の手でさすった。 「とにかく柊、今日は息抜きをして。俺は邪魔しないようにしてるから」  そう言って立ち去りかけた神崎の袖を、柊がつんと引っ張った。 「ちょっと待て」 「ん?」  振り返った神崎の手を取って無理やり椅子に戻し、 「おまえ、邪魔じゃない。だから――ここに一緒にいていいから」  ほんと、ばっかじゃねえ。  ちっとも怒っていないのに怒ったようにそう言って、柊も椅子に座りなおす。  神崎は今までの人生であまりなかった心の底からの安堵を覚え、ふてくされたようにそっぽを向く妻の横顔を見つめていた。

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