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第17話
持ち帰っている仕事もあったが、それを始めてしまったら柊が気を遣うだろうと、神崎は土曜日を丸一日完全休養に当てた。
この一週間、家のことはすべて柊に任せきりだったから自分たちの新居だというのに、細かいところまでわかっていない。
爪きりを捜しておたおたしている図体の大きな男の姿に、柊がたまらず噴き出した。
「ほら、これだろ」
「えーと。その…ありがとう」
魔法みたいに彼が取り出した爪きりを受け取るのも恥ずかしい。まともに礼すらも言えない。
そのうえ、
「爪切ってやろうか、ダンナさま」
などとからかわれて、普段の恨みを晴らされているようだと神崎は赤面した。
「なんなら膝枕で耳掃除とかもありだぞ」
ふふふ、と楽しそうに笑うから、いっそ「お願いします」と言ったらどうなるのか試してみたい気もしたが、どうせ「冗談を真に受けるんじゃない!」とか怒られるのがオチだろう、とひとりでひとまわりする。
「痛いからいい」
「痛くなんてしないぞ?」
怪訝な顔をするその傍らに座り込んで、神崎は爪を切りはじめた。
浅くソファに腰掛けて、柊は朝読んでいた本の続きを再び紐解いている。
横目でそれを見ながら、ぱちりぱちりと音を立てる。
まるで、隠居老人だ。
こんな休日なんて、ついぞ神崎は過ごしたことがなかった。
結婚前は遊び充実、夜のデートから休日のお泊りまで、引く手数多のモテ振りだったのだ。土曜の真昼間にのんびり居間で爪を切っている自分だなんて、想像してみたこともない。
別に今だって、誘う相手くらい事欠いてはいない。
新婚相手に、自分から連絡してくるような無粋な相手がいないだけ。そんな気の利かぬタイプは神崎の好みではない。
だがこちらから声をかければ、遊びは遊び、割り切って出てくるだろう女たちである。
誰かに連絡を取って、飲みに出るくらいならいいだろうか。
ちらりと横目で柊の様子を窺うと、彼は本に夢中になっている。
もとから神崎だって、政略結婚に甘んじる代わりに少々の浮気くらいは許されてもいいだろう、などと箍の緩んだことを考えていたのだ。もちろん、政略結婚どころか、ここにいるのが花嫁代理である現況を考えれば、それは浮気という名にも値しないだろう。
仮に神崎が堂々と他の女と寝たとしても、柊が怒るとは考えられない。
きっと、怒りたくても怒れない。
それが今の彼の立場だ。
ぱらり。
ページをめくる音がする。
真新しい爪切りに、神崎は目を落す。
隠居老人も、そんなに悪かない。
ぱちり。
「茶でも淹れるか」
神崎の心の隙間を狙いすましたみたいに、本から視線を上げないまま柊が声をかけてきた。
「俺が淹れるよ」
「オレが飲みたいから。一緒に淹れてやる」
止められる前にと、すっと立ち上がりキッチンへはいる後姿。
長い手足、華奢ではあるが均整の取れた美しい体つき。
もう見慣れたような気さえする彼の姿なのに、見るたびにどきりとするのはどうしてか。
「仕事だと思ってしてんじゃないから」
キッチンから聞こえてくる声に、潜められた照れくささを感じ取って、神崎のほうも一緒になってどことなく面映い。
「わかってる。ついででしょう」
「そう。ついでだ」
威張りくさった返事。
緩む頬を必死で押さえて、神崎は爪を切った。
午後からはふたりで買い物に行った。大きなショッピングセンターまで車で出たから、柊はこの時とばかりにあれこれと生活必需品を買っていくつもりのようだ。
「あれ買ってもいい?これも買っていい?」
いちいち神崎に確認しながら、楽しそうに品物を選ぶ。
「こっちは?あ、あれのほうがよくないかい?」
気がつけば神崎も口添えして、結果として両手に大荷物をぶら下げることとなった。
お互いを「カッコ悪い」と言い合いながら車に戻り「生鮮買っちゃったから寄り道できない」と、途中ケーキを買って家に帰った。
神崎を車に残して、柊が洋菓子店で選んできたケーキは、きらきら輝く四種類。白い箱の中に宝物のように納まっているのを、家に着くなり柊は蓋を開けて神崎に見せびらかした。
「いまオヤツに1個だろ。夕飯の後に1個だろ。だからひとり2個」
すごい計算だと思いつつ、黙って神崎は頷く。2個。神崎的にはひと月分くらいのケーキの量だ。
うーん、と柊はケーキと神崎とを交互に見やる。
「先に選ばしてやってもいいぞ」
「いいの?」
「いいよ。オレが食べたいのばっかり買ったから」
「それじゃあ、これ」
神崎が指差したマスカットのタルトを、コレ旨そうだよな、と柊は眺めながら、
「なぁ、紅茶入れてくれる?」
珍しくそんなことを強請られて、断れるはずがない。もちろんと立ち上がる。
神崎がティーセットとともにテーブルに戻ると、ケーキは既に皿に並べられていた。
穏やかなお茶の時間。
神崎のケーキの半分は柊の皿に移動し、ティータイムには長過ぎるほどの時間を、二人は取り留めなく語り合った。
そのまま夕飯を考える頃合になり、少しだけ揉めて、
「じゃあふたりで作ろう」
と神崎が提案。誰にでもできると柊が保証するカレーを作ることになった。
広めのキッチンも男ふたりが立ちまわることは想定していない。特に、ひとりは標準より大きい。
暗に邪魔くさいと視線で訴える柊を、神崎はあえて無視して手伝った。それはもう必死に手伝った。
「米が柔らかすぎる。ジャガイモがでかすぎる」
出来上がったカレーに文句を言うわりに美味しそうに食べるから、神崎は些か満足だったりする。
自分も食べてみて、そこそこ美味しいじゃないかと一安心したりもした。
お腹は満たされているが、甘いものは別腹。
そう主張する柊に従って、ケーキの残りを出してきたものの、さすがに神崎はお手上げ。「食べないなら両方いただき!」の妻の健啖ぶりに唖然とすることとなった。
「明日また実家に行こうと思ってる。足りない物、取ってきたいんだ」
今度は柊が淹れたコーヒーを飲みながら、明日の予定を話し合った。
「送っていくよ」
「いいよ、そんな」
案の定嫌がるけれど、神崎も負けてはいない。
「大丈夫。柊を家の前で降ろして、俺は一旦帰ってまた迎えに行くから。送り迎えだけさせて」
断固として言い張る。
「お願いだから、ね?」
食いさがる神崎に、渋々と頷きながら満更ではなさそうに鼻の頭にしわを寄せて、
「しょーがないダンナだな」
なんて言う。
一緒に並んで洗物をして。隙を見てこっそり沸かしておいた風呂に、無理やり柊を押し込んだ。
「たまには君も一番風呂の気分を味わってみるといい!」
ドアが開かないようおさえながら声をかけると、
「鬼!悪魔!ひとでなし!!」
しばらくそう毒づいていた柊だが、やがて諦めたのかおとなしくなった。
ずいぶんな言われようだ、そう思いながら声をかけた。
「ゆっくり温まっておいで」
「まだいたのか、このヘンタイ!」
思いきりよく言い捨てられて、すごすごと神崎はリビングに戻った。
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