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第18話
風呂上がりの柊は、上気した頬にかかる濡れた髪が艶やかで愛らしい。
「あの、お先にフロ、ありがと」
思わず目を奪われている神崎に、遠慮がちにリビングに入ってきた柊がはにかみながら礼を言った。
「いや――とんでもない」
我に返って、神崎は笑顔を作る。そして連日大サービスで用意したアイスティーのグラスを渡した。
悪いな、と口の中で呟き、こくんっと一口飲む姿に目尻が下がる。
「いいもんでしょ、一番風呂」
「まーな。でもさ、考えてみたら、最初の頃いっぺんだけ、オレ一番風呂入ってんだよ」
「そうだった?」
神崎は思い出すように眉を寄せた。それがどことなく子供っぽく見えると、柊はくくくと笑った。
「一緒に食事に行ってさ、買い物して帰って。そしたらおまえが風呂沸かしてくれたの。まさかそんなことしてもらえるとは思ってもなくて、驚いて、焦って、慌てて、腹立ててる間に気がついたら風呂につかってた」
「ああ…そういえば。怒られた」
お風呂どうぞ、と告げた神崎に「余計な事を」と怒鳴りつけたのだ。
柊は照れくさそうに頭をかく。
「わるかった。だってさ、その、家のこと完璧にやんなきゃいけないって覚悟決めてたはずなのに、夕飯は外食で済ませちゃうし、買い物行きゃダンナ荷物持ちにさせちまうし、そんでもっておまけに風呂掃除なんかしてもらっちゃってさ。あぁー、オレ大失敗って思ったらもう…」
自分に腹立ってたんだよ。
そう小声で付け足した。
神崎はついと微笑んだ。
彼が本気で怒ったことなんて一度もないと思う。困惑や、羞恥や戸惑いや喜びや。過敏に反応する感受性豊かな心を守るように、彼は怒ってみせる。その内側にある『思い』をわかって欲しいとでも言いたげに。
それが理解できれば、柊はこれ以上ないくらい素直でまっすぐな青年だ。神崎は彼と一緒にいて、謎のその心の奥を解き明かすのが楽しくてたまらない。
「柊はいい人だ」
嘘でも世辞でもなくそう思う。いい人。いや違う、もっと言えば、傍にいてくれると気持ちのいい人だ。
「いい人なんかじゃないっての!」
また怒る。照れくさいから。でもちょっと嬉しいと思っている。
神崎に誉められたことを。
彼のそんな細かな心の動きを読み解ける自分が、神崎は嬉しい。こんなにワクワクしている自分になぞ、ついぞお目にかかったことはなかった。
「わかった。いい人じゃない、君は……怒りん坊、かな」
「あきまさっ!」
「俺が風呂掃除したってだけで腹立てるし、怒りん坊だ」
「だからおまえを怒ったんじゃないって」
風呂上りの彼からは石鹸の匂いがする。ぐっと神崎に身を寄せて、必死になって弁明しようとする姿が可愛くてたまらない。
思わず神崎の笑みが深くなると、柊は一層顔を赤くした。
「ちがうって!あの時はホントにもうしっちゃかめっちゃかで失敗ばっかで、それに」
体温が上がったのか、立ち上る石鹸の香が強くなる。
「もしかして今日もスルかなって緊張してて――」
言った途端に柊が言葉を飲み込んだ。
大きく瞠られた瞳が、逸らすことを忘れたみたいに真っ直ぐ神崎の瞳を見つめていた。
「え?」
柊の言った言葉を、神崎はすぐに理解できなかった。だが、次第に戦慄き始めた唇に、ようやくその意味を読み取る。
「――柊?あの…そのことは」
「い、あ、その、べつにオレは」
しどろもどろに口を開くが、視線だけは神崎から外せずにいる。
「柊」
神崎は目の前の、自分より低い位置にある肩に手をかけた。柊が大きく息を吸い込むのがわかった。
「心配しなくていい。俺はここを出ていったりしい。約束したでょう」
「でも」
「あれは――あの時一度だけ、君が俺に抱かれたのは、」
ごくりと、神崎は唾を飲み込んだ。
「夫婦の義務、だったんでしょう?」
見開かれた瞳が、頼りなく揺らぐ。
ずきりと胸の奥が痛んだが、神崎はあえて言葉を続けた。
「俺をこの家に縛り付けるための儀式だった。そうでしょう?」
既成事実と言ったのは柊だった。2度目があるなんて、考えるだけで冒涜のように思っていたのだ。
「だから、あれが最初で最後」
「あきまさ」
掠れた声が名を呼んだ。手の下で肩がふらと傾いだみたいだった。
「でも、もしかして、おまえは――おまえが、望むんならオレは…」
「心配してた?また、ああいうことを俺が――」
柊はずっと、自分を恐れていたのだろうか。
「求めるかと思って?」
いつまた『夫婦』であることを盾に、欲望を押し付けられるのかと。
自分が強くそれを望めば、柊に断ることなどできないはずだ。
「俺のことが怖かった?」
「ちがう、そうじゃない」
きっぱりと言って、柊は思いつめたような声で答えた。
「ただ、おまえの気持ちがわかんなかったから」
わからないまま、不安な心を抱えて悩み続けていたに違いない。
昨晩の、寝しなのリビングでの会話の意味をようやく神崎は悟っていた。
たまにはベッドを――
求められれば拒むことはないのだと、おそらく彼は神崎に伝えたかったのだろう。
「俺はずっと、君を怖がらせていた?」
ちがう。
柊は大きく首を横に振った。
違うんだ。
柊の指が神崎の胸元にかかった。細かく震えるその指は、服を通しても熱く訴えかける力があった。
「柊……」
その熱が。逸らされぬ眼差しの勁さが、ようやく神崎に教えたものがあった。
「おまえは…オレのことなんか、身代わりとしてさえも必要ないのか?」
きゅっと、柊の指先に力が込められる。
神崎は己の無神経さを恨めしく思う。
違うのだ。
怖がらせていたのは確かだ。だがそれは無理強いに身体を求められることを、ではない。
神崎に求められないことだ。
彼の存在になんの意味もないみたいに、たった一度の繋がりが、まるで目を逸らしたい汚点だとでもいうように。
柊が恐れているのは、神崎が自分を必要としないこと。
疼くような痛みが心を締め付けた。その苦しさから逃れたくて柊を抱きよせた。胸に縋りつく身体を――その背に腕を回し、思うさま強く包み込みながら、神崎は深い悔恨の内にあった。
「あき、まさ?」
不安げにそう呼ばれると、息もできなくなりそうだった。彼をこんなに怯えさせるまで、自分の気持ちにすら気づけなかった、なんという鈍さ、愚かさ。
いや、気づいていたって、認めてはいけないと思っていた。
そんなことを伝えても彼を困らせるだけだと、心のどこかで止めるものがあったのだ。
「君が好きだ」
ようやく神崎はそう言って、柊の背に回した腕に力を込める。
「好きだから、義務なんかで抱かない」
ぎくりと竦む肩を、きつくきつく抱きしめて。
「誰かの代わりなんかじゃない。君を抱きたい」
「……オレ、を?」
苦しげな、囁くような声で問い返してくる。
神崎は答えた。
「柊を。俺が、自分の意志で抱きたい」
照れ屋の彼が嫌がるかと思って、肩口に顔を埋めさせたまま有無を言わさず抱き上げる。
代理で、などと彼を貶めたあの愚行を思い返すのがいやで、寝室ではなくまっすぐに自分の部屋のベッドへと連れて行った。
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