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第23話
「柊」
袋に入った弁当箱をぶら下げて、神崎は柊のもとに戻った。スマホを手にしたまま、柊は何か思いつめたような顔をして。心持ち俯いている。
神崎はそれに気がつかないふりをして声をかける。
「買ってきたよ、お弁当箱」
「明雅」
視線を上げない。
柊にしては珍しく、声に張りがない。
嫌な電話だったのだろうか。彼を悩ませるような。
「どうかした?」
「明雅――」
伏せた視界に神崎の持つ袋が映ったのか、柊は右手を差し出してそれを受け取った。そこに入っているのは、黒いプラスチックの、どこにでもあるような弁当箱。
「あのさ、」
「ん?」
「楓が、帰ってきたって…今、電話」
楓。
誰のことだったろう。
神崎は一瞬考えて、ああ、それは彼の妹で、自分の妻になっているはずの人だと思い至った。
「楓さんが?」
「うん」
帰ってきた。
「ついさっき。家に戻ってきたって」
それは、これからふたりが向かおうとしていた雨宮家において、思い描いてたものとは異なる展開が待ち受けていることを意味する。
ふたりの計画は、楓の思惑を入れずに立てられたものだった。
もしほんとうの花嫁が「やっぱり私、結婚してもいい」と言い出したら、話は一気に振り出しに戻ってしまう。
黙ったまま、弁当箱の入った袋を柊は見つめていた。
柊の触れると驚くほどしなやかで優しい、栗色の髪。少し長めの前髪に隠れた表情を、神崎は見つめている。
その心の内にどれほどの葛藤が生まれているのか、おおよその見当はつく。
どんな言葉を持ってしても、今の柊にはきっと届かない。彼が、彼の内で決着を見出すまでは自分にできることなどない、そう思って神崎もまた口を噤んでいた。
だが、沈黙は長くは続かなかった。
やがて思い切ったように柊は顔を上げ、
「行こう、明雅」
屹然と言い放つなり、もう踵を返し駐車場に向かう。その後姿に神崎は頷いてみせた。
考えてみると、雨宮の家を訪ねるのは初めてだ。神崎は些か緊張しながら柊の後に従って、設えの立派な家屋に足を踏み入れた。
「ただいま、父さん!楓は?」
実家なだけに案内も請わず、靴を脱ぎ散らかすようにして玄関を上がると、だんだんと勢いよく廊下を渡り、奥まったドアを開けた。
そこはどうやら居間のようで、ゆったりした広さのある日当たりのいい部屋に、大きなソファが置いてあった。
おそらくふたりの到着を待っていたのだろう、そこに座っていた柊の父親が、立ち上がって神崎に深く礼をした。それから、その向かいに座っていた少女が、溜息を吐きながら立ち上がる。
「――楓!」
呼びかける柊の声には、憤りと安堵とが入り混じっていた。
「おにい、ちゃん…」
写真で見たのと変わらない、クールな印象の少女だった。ただ実際に見ると、本当にまだ『少女』という言葉がふさわしいような幼さ、無邪気さが目立つ。こんな子供めいた相手と仮初めにも結婚しているのだと思うと、そもそもやはり無理があったのだと神崎は頭を抱えたくなった。
「ごめんなさい。心配かけて…」
居心地悪げに両手を握り合わせ、少女は上目遣いに柊を見た。どうやら随分と仲のいい兄妹なのだろう。傍目で見ていてもそれはわかった。
気まずく立ち尽くしたままの一座の中で、おそらく一番この場をまとめやすいのは自分では、と神崎が何か言葉を口にしようとした時。
パシン!
つかつかと妹に近づいた柊が、いきなりその頬を叩いた。
「柊っ!?」
大きく瞳を見開いて驚いている楓より、寧ろ驚いているのは神崎だった。慌てて柊に近寄ると、その肩に手をかけた。
「柊、一体なにを…」
「おまえが謝るのは、謝んなきゃいけないのはオレにじゃない!この男にだろ!」
柊は振り向かず神崎の手を薙ぎ払う勢いでそう言って、唖然としている楓に詰め寄る。
「我儘勝手して!酷いことして!傷つけて!謝んなきゃいけないのはこいつにだろ!!」
「し、柊、べつに俺は…」
「明雅は黙ってろ!!」
ビシリと言われてハイと黙り込んでしまう神崎である。柊はきっと楓をねめつけた。
「おまえのしたことは、この男のプライドとか、人生観とか、生活とか、そういうものすべて狂わせちまうくらいの一大事だったんだ!本当に嫌なら、結婚したくないなら、はっきりとそう言えばよかったんだ。オレも、父さんたちもおまえの言うことに聴く耳持ってなかったのかもしれない。それは悪かった。でもな、結婚式の当日に逃げるってのは、あんまりにも卑怯だと思う。そんなの、あんまりにも――」
ぐっと、柊が拳を握り締めた。まるで自分のことのように湧き上がる怒りを、懸命に堪えているようだった。
「こいつに、失礼だろ」
瞬きさえしない少女は、打たれた頬を押さえて兄を凝視している。
「柊、そろそろ…もう」
小声で、傍らから柊の父が呼びかけた。
ぐっと肩を揺すって、柊は顔を伏せてからそのまま力なくソファに座り込んだ。
兄がこんなに怒ったところを見たことがなかったのだろう、身を竦めたまま言葉も発することのできなかった楓の瞳には大粒の涙が浮かんでいた。
間を持つように、柊の父が神崎の前に進み出て、深々と一礼した。
「神崎さん。本当に申し訳ございませんでした。こうして、楓は無事に家に戻ってきました。その、これからのことについては娘ともきちんと話をしまして、神崎さんのほうににご迷惑のかからないようにしていきたいと思います」
楓とのことを白紙にし、柊との仲を認めてもらう為に訪なったはずの雨宮家だった。これ以上問題を複雑にしたくはないが、そうですか、と引っ込んでしまうわけにもいかなかった。
自分と柊の未来がかかっているのである。
娘ときっちり話をつけたいのであろう父親の気持ちもわからないではない、けれどとりあえず話の端緒だけでもつけておきたいと神崎は思った。
「そのことですが、実は楓さんとの結婚の件は…」
そう言いかけた途端、脇から楓が、
「ごめんなさい、神崎さん」
気勢を殺ぐみたいにぺこんと頭を下げた。
「おにいちゃんの言うとおりです。いろいろ迷惑かけてすいませんでした」
「謝る必要なんてないですよ」
神崎は笑顔をもって返した。意外なほど素直に謝ってくるあたり、柊の薫陶というか、教育が行き届いているような気がする。
「あなたのような若いお嬢さんが、私のようなオジサンと結婚しようなんて、確かに今時じゃ考えられないことですよね。こちらのほうこそ配慮が足りず、結局あなたを追い詰めるようなことになってしまいました。今まで不自由な思いをされてきたんでしょう。申し訳ないことをしました」
「そんな、あたし、あの、ちがうんです!」
楓は焦ったように胸の前で手を振りまわした。やはりなんとなく柊に所作が似ていると思えるのは、自分が彼女の中にその姿を探してしまうからかもしれない。神崎は目の前の少女を改めて眺めた。
「あたし、ホントに、こんな大騒ぎになるなんて考えて
なくて…」
「楓さん。気にしないで。現に何の問題もなく今日まで過ごしてきたんですから」
どこにでもいるような女の子。泣き出しそうに顔を歪めるその様は初々しくて、好ましい。
神崎はごく自然に微笑んでいた。
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