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第24話
「そんな顔されたら、私が苛めてるみたいで困ってしまいます。ね?お義父さんの仰るとおり、無事に戻って来てくれてよかった。あなたに万が一のことがあったら、それこそ私はなんとお詫びをしていいのかわかりません」
「神崎さん……」
慰められたせいか、楓はまた瞳を潤ませて神崎を見つめてくる。その楓の肩越し、ちらりと柊を窺う。
彼は押し黙ったまま、深くソファに腰掛けて項垂れていた。
ここに来る車中、ふたりはひとことも口を利くことができなかった。なにをどう言っていいのかわからなくて、いや正直にいえば、怖くて、神崎は柊に声をかけることができなかったのだ。
だが今はもうそんな悠長なことをしてはいられない。
目の前の少女ではなく、俯いている青年に聞かせるように、神崎は言った。
「籍は入ってしまっていますが、会社の状況が好転して先の見極めがつき次第、すぐに離婚の手続きを取ります。失礼ですがしばらくの間、戸籍上は私の妻として辛抱していただけると助かります」
「神崎さん!?」
驚いたのは柊の父だった。
「離婚って、それは一体」
「楓さんには楓さんの幸せがある。無理に私と結婚させたままでいるのはあまりに可哀想です。ただ、一旦籍を入れて私が雨宮の娘婿という形で会社に入っている以上、少しの間だけはこの状況を維持させていただきたいのです。経営が軌道に乗ったら婚姻は破棄したいと思っています」
今ここで柊との関係を認めてもらうのは、不可能だろうと神崎は思う。話をそこまで持っていくには、越えなければならないハードルが多すぎる。
それならひとまず『楓との婚姻の終結』だけでも、神崎はっきりと表明させておきたかった。
もちろんたんに離婚するということではない。穏便に、平和裏に現状を維持し、できればこのまま柊との『ニセ夫婦生活』を続けていきたい。そうして会社の再生の目途が立ったら、すっぱりと楓との政略結婚は終了する。
今日のところはその約束を取り付けて、折を見て自分と柊が愛し合っていることを認めてもらうしかないだろう。
「雨宮さん。しばらくの間、私に時間をください。必ず自分の責を果たしてみせます。楓さん、どうかそれまでご容赦いただいて、形だけ私の妻のままでいてやってください」
「ですが、離婚だなどと。そうなったら娘よりむしろ神崎さん自身の立場が…」
それでは神崎の名と能力をだけを利用して、使い捨てのコマさながら打ち捨てることになる。
ことさら落ち着いた口調で神崎は答えた。
「立場なんて問題じゃありません。お嬢さんは私のために家出するほど悩んだんです。一刻も早く再建計画を軌道に乗せて楓さんを自由にしてさしあげることが、今の私にできる唯一のことだと思います」
雨宮氏は困惑したように眉を寄せた。
「娘に一方的に話をもっていったのは私どもの非です。可哀想なことをしたかもしれません。ですが…だからといって乞うて来てもらった神崎さんに、恩を仇で返すような真似などできません、」
それに、と、真っ直ぐ神崎の目線を捕らえると、
「今のお話を聞けば尚更。あなたなら娘を必ず幸せにしてくれると信じられます」
どうだ、楓。
父に声かけられた楓はといえば、ぽわんとした表情で神崎に見惚れているようだった。
「おまえだって、この人なら一生ついていける相手だと。そう思わないか」
一瞬、神崎の背筋に冷たいものが走った。
「か、楓さん。私のようなオジサンなんてその、とてもじゃないですがあなたの結婚相手にはふさわしくないですよね!」
「オジサンなんかじゃないです!!」
楓は真っ向、神崎の言葉を否定した。
「神崎さんはオジサンなんかじゃありません、ゼッタイ!カッコイイし、優しい、思いやりがあるし。結婚式から逃げたあたしなんかに、こんなに気を遣ってくれて。すっごくいい人です!オジサンなんて決め付けててごめんなさい!絶対違います!」
「いえその…オジサンなのは確かなことで…」
話の展開に不穏を覚え、思わず神崎は柊を省みた。ソファにかけたまま組んだ指先を見つめ、柊は微動だにしない。
まるで聞こえてくる言葉を拒んでいるように見えた。
ドクリ、と神崎の心臓が大きく打った。
「とにかく今の時点では、形だけ夫婦ということでしばらく置いておいていただいて、楓さんにはしっかり自分の気持ちを見つめ直してもらったほうがいい」
なんとかこの場をおさめようとしてみるものの、
「いえ。神崎さんの人となりを承知したうえで、ぜひとも楓を貰い受けていただきたい!娘を託すのはあなたを置いて他にはいません。どうか、先の非礼をお許しのうえ、心機一転真の夫婦として新婚生活をやり直してはもらえませんか」
雨宮氏は神崎に向かって懇願する。
神崎は救いを求めるように傍らの少女を振り返った。
「しっ、しかし、楓さんは私などでは嫌でしょう。ね、楓さん!」
「イヤじゃないです!」
楓はちょっと恥かしそうに頬を染めながらも、はっきりと言い切った。
「ええっと、披露宴に出た友達が、その子達、あたしが逃げ出すのに協力してくれてたんだけど『ダンナさんすごくかっこよかったわよ』って言ってたんです」
反応を確かめるように、楓はそっと神崎を見上げた。
「今日、家に帰ってきたのもその子の家に匿ってもらう約束で行ってみたら。『あんな素敵な人が相手だったら逃げるのもったいないよ』って言われて。それでどんな人なんだろって気になって」
「…帰ってきたというわけか」
少々呆れ気味の父の言葉に、悪びれた風もなく楓は頷いた。
「ほんとにかっこいい人なんでビックリです。あの、オジサンなんかじゃなくて大人の男の人って感じで。それに、話聞いてて、とってもいい人だなって思ったし。だからもし今からでもいいんなら、ちょっと結婚生活始めてみたいかなとか」
はにかむような笑顔。少女めいた頬が上気している。
「それが一番いいですよね。最初っからの予定通りってコトで、まるく収まるし」
当初の訪問目的とは180度違う方向へ話が進んでいる。何とかこの現状を打破しなければ、柊とのことを認めてもらうだなんだいう前に、楓との結婚が現実化してしまう。
思わぬ展開に、神崎は楓の肩を押さえるようにして言い聞かせた。
「待って楓さん。よく、よーく考えてみてください。あなたはまだ18歳で、若くて可愛い。人生は長いんですよ、これからいくらだっていい相手が出てきます。今、こんなに安易に結婚を決めたら、絶対に後悔します」
「後悔なんてしないです。だって、神崎さん、ステキだもの!」
だが、楓はもう決定したとばかりに嬉しそうに神崎を見つめてくる。その父親も、もともとの約束をようやく履行できる、とあからさまな安堵とともに「よかった」と口にする。
「楓さん」
神崎は焦燥に歪みそうになる表情を懸命にこらえる。
柊との関係をすべて打ち明けて、楓との結婚を頑として断ることは可能ではある。が、『神崎が楓に捨てられて柊と結ばれる』のと『神崎が楓を捨てて柊と結ばれる』のとでは、まったく心象は違う。
この先の人生を、柊と共に歩んで行きたい。
柊のことを考えるのなら、祝福とまではいかなくても、せめて雨宮の父からも楓からも二人の付き合いを否定されたくはない。
その為には無碍な態度で楓を傷つけるようにして切り捨てることなどできない。彼女は柊の大切な妹であり、神崎にとっても家族になってほしい人なのだ。
だからといってこのまま楓を受け入れてしまえば正規の新婚生活がスタートし、それはそのまま柊を裏切ることになる。
そんなことはできない。
第一、今の神崎には柊以外の誰かと共に人生を歩むことなど、微塵も考えられない。
柊とふたり、穏やかかつ誠心誠意を込めてその父親に、自分たちの関係を説明したいと思っていたのだ。
逃げた妻の代理にやってきた兄に心奪われた。そのことに一縷のやましさも感じない。柊を好きで好きで、それは誰にも憚かることのない真実だ。
けれど正当な花嫁である楓が今ここにいて、その権利を主張している。彼女の言い分は、失踪という行動には問題があるとしても、筋が通っている。
この状況で、どうやって自分の真率な思いを伝えられるのか、神崎にはわからなかった。
そんな神崎の逡巡に気づく風もなく、楓は邪気なく笑顔を見せている。
「それにもう入籍済みで、正式に結婚しちゃってるわけでしょ?今日からあたしが神崎さんと暮らして、ちゃんと奥さんやるからね!」
そうしてソファに項垂れる柊を振り返り、励ますみたいに声をかける。
「おにいちゃんには心配とか迷惑とかいっぱいかけて、ほんとにゴメンなさい。もう大丈夫だよ」
「……楓」
柊がゆっくりと顔を上げた。僅かに瞳を細めたその表情は、微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「今まであたしの代わりに神崎さんの面倒見てくれてたんでしょ?ありがと。おにいちゃんに負けないように、私もがんばって神崎さんのお世話するから。なんにも心配要らないからね」
宣言する楓の張り切った台詞に、虚をつかれたような柊の瞳が楓を通り越して神崎に向けられた。
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