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第25話
「これからは、あたしが神崎さんのこと大切にするね!」
「………そう、か」
柊の唇が、笑みの形に似せて歪んだ。
「そうだな。楓の…ヘタクソな料理食べさせられるの、ちょっと…こいつが可哀想だけどな」
「おにいちゃん!」
むっとふくれる妹に、柊は安心させるように何度か頷いて見せた。
「嘘だよ。明……神崎さんは、好き嫌いもないし。手のかからない人だから……多分おまえでも、きっと役に立つよ」
この人はいったいなにを言っているんだろう。
理解できないまま一歩、柊に近寄ろうとした神崎を制するように、顔を上げて視線を合わせてきた。
眼差しは優しくて温かくて、だが神崎をきっぱりと拒絶しているように見えた。
「楓なら。女だし。奥さんだし。みんなに祝福されて結婚してるんだし。文句のつけようがない」
彼は、いったいなにを言っているんだ?
自分の耳がおかしくなったとしか思えずに、神崎はじっと柊を見つめ返す。
「あるべき形に戻るだけだから。確かに順当な結末だよな。結末ってか、はじまりってか」
「うん、ほんとのはじまりだよね」
兄の言葉に嬉しそうに楓が頷く。
「仲良くしてやってくれよな」
誰にともなくそう言って、ヨイショと勢いつけると柊は立ち上がった。ぐっと大きく伸びをして、
「ま、短い間だったけど、お世話になりました。オレなんかでもちょっとは役に立ったんならいいけどさ」
神崎に向かって右手を差し出す。
神崎が目を瞠り、立ち尽くしたままでいると、柊は無理やりその手を取って握りしめた。
「いろいろありがとな。これからは名実ともに義兄弟ってやつか。やっぱこれが一番いい選択だよ」
「柊…」
「どうかふたりで幸せになってください」
神崎の言葉を封じるように、きつく視線で射すくめながら。
「妹を。よろしく」
柊の手が離れた。
力なく、神崎の手が落ちる。
一番いい選択。
柊にとってはそうなのだろうか。
なにもなかったように彼の妹を娶って。
彼を義兄弟として、すべて忘れたみたいな顔をして。
それとも、水を向けてみれば、身体だけは許してくれるつもりがあるのかもしれない。
そんな関係を、もし神崎が求めるとしたら。
「おにいちゃんてば、永遠の別れじゃないんだから寂しいこと言わないでよ!マンション近いんだし、あたししょっちゅう帰ってきちゃうよ。あ、おにいちゃんもうちに遊びに来てよね!お兄ちゃんの肉じゃがとか、食べたいもん」
しんみりした雰囲気を吹き飛ばすように楓が柊の背を叩く。柊は、痛い、と文句を言いながら振り返り、
「バカ言ってんじゃない。新婚さんのところにそうそう上がり込むわけにいかないだろ。肉じゃがくらい自分で作りなさい」
ええー、と不服そうに頬をふくらます楓。
教えてやるから頑張りな、と諭す柊。
ほっとしたように兄妹を見守るその父。
神崎は――ただそれを傍観していた。
自分を介さないまま、当たり前のように当たり前の状況へと走り始めた現実を、信じられない思いで見つめているしかなかった。
柊の気持ちは神崎にも理解できる。
家の為に、妹の為に、自分を殺して神崎の元へとやって来たあの青年は、今また神崎と妹の為に、自分が身を引くくらいなんでもないと思っている。
ようやく身体を添わせたことも、ずっと一緒にいようと約束したことも、なかったことにして。
花嫁代理はもういらないのだ。
楓と柊がその位置を代わり、それですべてが丸くおさまる。
楓の幸福。神崎の幸福。
柊はそれを、非の打ち所のない結末だと考えている。
俺の気持ちはどうなる。
このまま柊を失って。
今度は柊の代理のように、楓を抱くのか。
そんなこと、できるはずがない!冗談じゃない!!
「オレの荷物、明日にでも取りに行くから。置いといてくれるかな」
楓にとも神崎にともつかず声をかけ、柊はくるりと踵を返した。
「んじゃ、久々に自分の部屋で寝てくるわ。なんかちょっと疲れた」
「柊」
神崎の呼びかけに、僅かに肩を揺らしただけで彼は振り返らなかった。背中越しに手を振る。
「バイバイ、明雅」
明雅。
彼にそう呼ばれるのが好きだった。甘く切なく、時には怒鳴り声で「あきまさ」と、彼が呼ぶ。
今ここで柊を逃がしてしまえば、もう二度と聞くことは叶わないかもしれない。
昨晩この腕で確かめた、あのしなやかな姿が、躊躇いの欠片さえ見せずに部屋を出て行こうとしてる。
嫌だ。
失いたくない。
失えない。
他すべてを捨ててでも、彼だけは失うことなどできない。
そう思った途端、神崎は行動に出ていた。
「お義父さん!」
悲愴といっていい、切羽つまった神崎の声。柊の足がひたりと止まる。
「か、かか、神崎さんっ!?どうしたんです?」
応える父の声は驚愕もあらわだ。おそるおそる振り返った柊は、信じられない光景を目にして固まった。
「申し訳ありません!私は楓さんと結婚することはできません!!」
柊の父の足元で、神崎が膝付くようにして頭を下げている。呆気にとられ誰も制止しないまま、神崎は尚も訴えかける。
「どうかお許しください。私には、楓さんより大切な人がいるんです。たとえ仮初であれ楓さんを妻として迎えることは、私にはできません。そして楓さん、」
目を見開いて神崎を見下ろしていた楓が、小さく身を竦ませた。
「仕事の便宜の為にしばらく籍を入れておこうなどと、姑息なことを考えました。お詫びいたします。すぐにでも籍を抜いて、あなたの束縛はなくしますから。ですからどうか、人生を共にするにふさわしい方をじっくり見つけてください。あなたならきっと、必ず素晴らしい人と、巡りあえます」
「し、しかし。すぐに離婚だなんて。それこそもう少し考えたほうが……その、仕事にも支障が出るかと」
ようやく柊の父が振り絞るように声を出した。神崎は再び頭を下げる。
「経営のことでしたら、神崎の名になど頼らなくとも必ず私が、どんなことをしてでも再建して見せます!」
「神崎さん、とにかく落ち着いて下さい。娘のことが気に入らないなら無理に、という気もありません。ただ、そう結論を急がないで、よく考えてみてください。それから説明していただければ…」
「いいえ!」
立ち尽くしたままの柊に向けて、ゆっくりと視線を上げる。
「もう。考えることなどひとつもありません」
痛いほどのその眼差しの前に、柊は意図せず引き寄せられた。跪いた男の傍らに立ち、見下ろす。神崎の整った眉が寄せられて、眩しいかのように柊を見返す。
これほど静謐で、それでいて滾るような熱情の溢れた瞳を、柊は知らなかった。
彼のすべての思いが、その瞳から自分の中に注ぎ込まれてくるようだ、受けとめきれず、溢れかえってしまいそうなほど一途な思い。
おそらくは『愛』と呼ばれるその感情に、痛いほど貫かれて柊も決意を固めた。
「…父さん、」
「柊?」
訝しげな父の声に頭を巡らせ、柊は軽く肩を竦めて見せた。
「オレ、家出るわ」
「柊!?」
「おにいちゃん!?」
「この家出てさ、この男と暮らすわ」
指差された男は息を呑み瞳を見開く、それから誇らしげとでもいいたげな笑顔を浮かべる。
柊は照れたのか鼻に皺を寄せて見せた。
でも、と楓が首を傾げながら聞いてきた。
「もういいんだよ、神崎さんの奥さん代理なんてしなくて。ちゃんとあたしが、」
「だ・か・ら!」
遮るように言ったのは、もう耐え切れないからだ。これ以上この場にい続ければ、きっと心臓が燃え上がって死んでしまう、と柊は思った。だからさっさとカタをつけたくて、拳握りしめて怯まずに楓と視線を合わせた。
「妹のダンナ奪い取ろうってんだから、この家出てかないことにはカッコつかねえだろ!」
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