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第26話

 ぱちぱちぱちと、楓が瞬きを繰り返す。  柊は神崎の隣に座り込むと、驚き呆れる楓に向かって頭を下げた。 「ごめん楓!雨宮とは縁を切る。だから悪いけど明雅ことは諦めてくれ!」 「…え、おにいちゃん?」 「ごめんごめんごめん!でもオレ本気なんだ!さっきはカッコつけて身を引こうとか思った。それが楓にも明雅にもいいことだと思った。でもだめだ。無理だ。たとえ楓にだって、こいつのこと譲れない!頼むから明雅をオレにくれ。嫌だって言ってもダメだ、こいつはオレのもんで、誰にも渡したくないんだ!」 「なに言ってんの…訳わかんないよ!おにいちゃん、どうしたの!神崎さんも!」 「どうしたって――だからオレ、こいつと、」  土下座したままの神崎にさらに身をよせ、 「こいつと一緒にいたいんだ。これからもずっと」 「わかんないよ!」  困惑のあまり泣き出しそうな表情になって、楓は柊の前に膝をつく。柊の肩をガシガシと揺らしながら、 「ねえ、それっておにいちゃんが神崎さんのこと好きってことなの?おにいちゃんが神崎さんのお嫁さんになるってことなわけ?」 「そ…れは」  妹に詰め寄られ、柊はしどろもどろで目を伏せる。楓は畳み掛けるように尚も問いかけた。 「家を出てでも一緒になりたいくらいこの人のこと好きなわけ!?」 「その、つまり」 「本気でそんなこと言ってんの?」 「でもオレ…」 「私が、この人を離したくないんです」  神崎が、口ごもる柊に代わって答えた。  そして楓に、次いで立ち尽くしたままの柊の父に視線を移した。 「柊、さんは素晴らしい人です。僅か日数ではありますが、共に暮らしてよくわかりました。まっすぐで一途で、どんな時にも精一杯の努力をする、彼の姿に教えられることばかりでした」  そうして再び床に額を擦らんばかりに頭を下げた男を、柊までもが驚嘆の眼差しで見つめた。 「柊さんのことが好きなんです。なにものにもかえがたいくらい、大切に思っています。彼なしで生きていくことなど、もう考えもつきません」 「か、神崎さん…」  柊の父が、虚脱したような声で呼び、神崎の横に膝をついた。 「とにかくその、落ち着いて話を聞かせてください」 「柊さんを私にください」 「神崎さん!」  宥めるように肩に手をかけられたが、神崎は頑なに下げた頭を上げようとしない。 「卑怯なのはわかっています。まだ学生の柊さんを、同居を幸いにして手に入れたこと、申し開きの言葉はありません。ですが、本気なんです。けっして、楓さんの代わりだなどと思ってはいません」  必死だった。  みっともないともかっこ悪いとも、微塵も思わず神崎は懇願を続けた。 「お願いします。柊さんをください。彼が私を選んだことを絶対に後悔しないように、努力しますから。お願いします、一生必ず大事にします、幸せにします!」 「…明雅」  床についていた神崎の手の甲に、柊がそっと手を添えた。  そこからありったけの優しさが伝わってくる気がして、神崎は小さく息を吐いて顔を上げた。 「オレ派もう未成年じゃないし。誰がなんて言っても、おまえと一緒になる!もう決めた。この家出て、おまえが嫌って言っても、おまえと暮らす!!」  照れくさそうにそう言う笑顔が目の前にあって、よしよしと頭を撫でてくる。 「すっげえ恥かしくて、かっこ悪いプロポーズだった!」 「柊…」 「でもサイコーに嬉しい!!」  すぐ隣に自分の父親を置きながら、神崎の鼻先に柊がキスをした。 「しっ…しゅ、柊!!!」  神崎はもう心の内に沸き起こる激情を抑え切れなかった。  目の前の柊を力いっぱいに抱きしめた。周りに誰がいるのか、重々承知していながら、どうにも自分を止められなかった。もう、見るなら見ろとでも言いたい気分で、神崎はひたすらに柊を胸の内に閉じ込めた。 「ありがとう、柊!」 「オレだっておまえのこと、幸せにしてやるから」  信じられないような言葉をもらって思わず相好の崩れる神崎。柊はすり、と甘えるように神崎の胸に頬を押し付ける。それからきゅうっと神崎の手を握り締め、 「父さん、楓。そーゆーわけでオレ、こいつと一緒に幸せになってみせる」  思い詰めた、だがすべて吹っ切れたような声で言った。 「我儘でごめん。でもオレ、こればっかは譲れない。父さんにも楓にも、ものすごく悪いことしてるんだとわかってる。わかってんのにどうにも自分をとめられない。だから、ケリつけるためにも家は出る。もう兄でもなけりゃ子でもないと思ってくれていいや」 「しゅう……」  ぎゅぎゅっ。逆らうことなく神崎に抱かれたまま、柊はまだ足りないように神崎の手を握った指に力をこめる。 「こいつのことが好きなんだ。他のなにを失ってでも、こいつだけは失くしたくない」  神崎はもはや幸福の絶頂にいた。  この世の中に怖い物などなにひとつない。一番大切だと思う相手から等しく想いを返されること。それがこんなに自分を昂ぶらせることができるなどと、過去のお付き合いからは想像したこともなかった。  今はじめて、恋をしているのだと神崎は思った。  柊に出会ってようやく自分は、本当の恋をした。  目の覚めるような思いだった。  世界はこんなにも明るくて、強くて、広いものだったのだ。  唖然としたまま一言も発せずにいる柊の父を、真正面から見つめた。 「赦してくれなくてもいいんです」  柊が覚悟を見せたのに、自分ばかりがいつまでも責めを免れえようとしているのでは情けない。  どうしたって、これ以外に自分は進むべき道を知らないのだ。 「柊さんをご家族から奪うこと、申し訳ないと思います。家を捨てさせてまで人一人を手に入れようだなんて、自分勝手もいいところだ。でも私は、どんな無理を通してでも柊さんが欲しいんです。諦めることなんてできない!」  柊の肩を包み込み、立ち上がる。  誰も言葉が出せない。抱き寄せられた柊でさえ一言も発することができぬまま、もう迷いの見えぬ男の眼差しに捉えられていた。 「仕事は、仕事です。柊さんの為にもご一家の為にも誠心誠意、会社の再建に取り組ませていただきます。私の顔など見たくもないかもしれないですが、どうか割り切って利用してやってください」 「――神崎、さん」  ようやく立ち上がり、弱弱しく呼びかけてくる柊の父に、 「失礼します」  神崎は深々と礼をした。柊の背を支えるようにして、踵を返し部屋を出て行きかけた神崎の足がふと止まった。  袖口をついと楓が引張っていた。  こわばった表情で兄とその連れを見上げる少女は、比べるみたいにふたりを交互に見つめてくる。  柊が視線を伏せた。  自分が裏切る形になってしまった妹の眼差しは、まるで責め立ててくるようで辛いのだろう。小さく震えた柊を守るように背後に隠し、神崎は一歩進み出て楓に対峙した。

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