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第1話 雨中の月

 ある雨の夜、俺は月を拾った。  夕方にしとしと降り始めた雨は、夜中にはバケツを引っ繰り返したような土砂降りになっていた。そんな雨の中を駆ける俺の手に傘は無い。繁華街の裏通り、人一人通るのがやっとの狭い路地では邪魔なだけだ。そもそも傘なんて差したところでこの豪雨では何の防御にもならなかっただろう。  とにかく、早く家に帰りたい。そして寝たい。疲労と濡れ冷えた体の所為でぼんやりし始める頭を軽く振り、俺は最短ルートで自宅目指して走る。  と、その時。踏み出した右足が何か大きなものにぶつかった。  転びそうになって、寸でのところで何とかバランスを保つ。危なかった。もう少しでずぶ濡れの上に怪我まで拵えるところだった。 「あっぶね……何、こんなところに不法投棄ですか?いくら小汚い裏路地ったって社会のルール違反でしょうが」  ぶつくさ漏らす独り言も雨で掻き消される。不機嫌ついで、蹴躓いたものの正体を確かめようと屈んで顔を近付け――― 「ッ!」  思わず瞠目する。  人間だ。汚れたアスファルトの上に、人間が蹲っていた。体格からして男だろう。土砂降りの雨に打たれているそいつは、思い切り蹴られたというのに起き上がる気配すらない。しかし、よくよく見れば体が小さく震えている。一応生きてはいるらしい。 「あらまあ……行き倒れか酔っ払いですかね。おーい、大丈夫ですか?」 「…ゥ……」 「あ、意識あります?この雨ですし、こんなところで倒れてたら凍え死んじゃいますよ」  声を掛けると微かに反応があった。だが、返事をする程の余力はないらしい。苦し気な低い呻き声しか返ってこないのに閉口する。 「うーん……取り敢えず、どこかの軒下にでも移して置いときましょう。後は自力でなんとかしてくださいねー」   正直、縁もゆかりもない相手がどうなろうと知ったこっちゃないのだが。具合の悪そうな人を蹴飛ばしてしまった負い目もある、し。一先ず雨の当たらないところに移動させるくらいはしておくかと、男の方に手を伸ばすと、不意にがっしり手首を掴まれる。 「お、お?」  予想外に大きく力強い手だった。よく見れば、浅黒い色した腕も逞しい。太さなんて俺の1.5倍はありそうだ。  そして何より目を惹くのは、手首から腕へびっしり刻まれた刺青だ。何か意味のある図柄なのか、幾何学模様の線がいくつも絡み合い複雑な絵を描いている。 「わーすごい。気合い入ってますねぇ……ところでお兄さん、ちょーっと痛いんで手を離して欲しいんですが」 「……」 「痛ッ!?いだだだっ!折れる、手首折れるから!」 「……」 「あ、緩んだ……ありがとうございます、でも出来れば手を離してほしいんですが……あのー、もしもーし?」  握り潰さんばかりの力は改善して貰えたものの、中々手を離して貰えない。そのうえ今度はシャツの袖をがっちり握られてしまった。畜生、半袖着てくればよかった。  しかし、このままでは立つことも出来ない。どうするかと首を捻って、考えること数秒。 「引っ剥がしますか、面倒ですし」  握力では敵いそうにないが、そこはそれ、手段は幾らでもある。元より、蹴飛ばしたお詫び以上の親切を働く気はさらさらないのだ。  心を決めたところで、男の腕を引き剥がすべく手首に触れる。  と、俯いていた男の頭がゆっくり持ち上がった。襤褸切れのようなフードが外れ、その面貌が露わになる。

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