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帰りの電車のなかで、祐樹は窓に映る自分の顔をじっと見ていた。
きのうから二度ほど頭のすみに浮かんできた顔を、今度は意識して思い出してみた。これは香港に行くという予兆だったのだろうか。
ユーキ、とカタカナの響きで名を呼ぶ低い声。不機嫌そうな表情が祐樹を見るとすこしだけ口元をほころばせた。
キスは情熱的で、体をたどる手は優しく容赦なく祐樹を翻弄した。
もう2年以上前の話だ。
鮮烈だった彼の記憶は、祐樹のなかで自己嫌悪と後悔とともに香港の思い出として刻まれているが、もう会うことはない相手だった。
偶然になんて、まず会うはずがない世界の住人だ。
香港にいないことが多いだろうし、そもそも会いたいと思ったところで簡単に会える相手ではない。
彼がどれだけ忙しい人間か知っているから、こちらから連絡する気はなかった。前回の別れのさい、また会いたいと言われていたとしても。
実際、その後何度か出張で訪れているが、祐樹は一度も連絡をしなかった。
あのとき渡された連絡先もすでに捨ててしまったし、もう二度と会うことはないだろう。
彼とのことは嫌な思い出ではないが、大事に取っておきたいというものでもなく、かといって忘れてしまいたいというものでもなかった。
夢を見ていたようなとにかく鮮烈だった、としか言いようがない経験だった。違う世界の住人だなと驚くばかりだった。
ふっと息をついて、祐樹は記憶のなかの面影をそっとしまいこんだ。
孝弘からは全部切ってと言われているが、わざわざ切りに行く糸もすでにないのだ。
すべては過去の話だ。
現在に戻ってガラスに映るじぶんと目があう。
そもそも今回は孝弘と一緒なのだし、ほかのことを気にかける必要はない。孝弘のことだからああやって釘をさしておいてもあれこれ手配するのかもしれない。
それもまあいいか。
また別世界に連れ出されるのも悪くないと思う。
仕事でしか行ったことのない香港で、どんな休暇になるのか。
素直に楽しみだと思い、祐樹は電車を降りた。
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