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 祐樹は驚きに目を瞠って、それから急いで記憶を探って相手の名前を思い出した。 「ええ、と。”…ミスター(チェン)?”」 “覚えていてくださいましたか。お久しぶりです、奇遇ですね。お仕事、ではないですよね”  英語で話しかけながら、綿シャツにカーディガンに7分丈パンツというラフな格好の祐樹を見て、陳はちょっと首をかしげた。 “ええ、今回はプライベートで” “そうですか。ご旅行ですか”  陳は隙のない目つきで祐樹を見て、それからためらいがちに口を開いた。 ”…ぶしつけを承知でお訊きしますが、…香港滞在中にすこしお時間をいただくことはできますか?” “たいへん申し訳ないのですが、連れがいますので”  祐樹は感情を読ませない淡々とした声を心がけて返事をした。  目線を孝弘に送ると、陳もすこし先でスーツケースを手に立ってこちらを見ている孝弘を認めてかるく会釈した。  孝弘の顔を見た陳の目がほんの一瞬、瞬きをしたのを祐樹は見逃さなかった。  陳の会釈を受けて、孝弘も同じように会釈を返す。スーツ姿の陳を見て、取引先の関係者とばったり会ったとでも思っているのだろう。 “重ねて失礼ですが、プライベートであちらの方と一緒にご旅行されているということでしょうか?”  丁寧な物腰をかえずに、陳はさらに踏み込んできた。  孝弘の顔を見られたのはまずかっただろうか。面倒なことになったかもしれないと思う。  答えなくても構わなかったが、祐樹はあえて笑顔を添えて返事をした。  面倒を引き起こさなように、ここで陳を退けておいたほうがいいと判断したのだ。 “ええ、恋人なんです”  祐樹の笑顔に一瞬、陳は黙りこみ、それから穏やかに微笑んだ。 “そうですか。それは素敵ですね。…ところで立場上、あなたとお会いしたことを報告しないわけにはいかないのですが、それはご承知おきくださいますか?” “ええ、でももうお会いすることもないと思います。私の動向など報告の必要もないと思いますが、もし報告されるなら、どうぞお元気でとお伝えください”  ふたりとも誰が、ということは言わないまま会話が交わされた。  祐樹は話は終わったとばかり、それではと待っている孝弘のもとへ歩き、ごく軽く孝弘の腕を引いた。 「知り合い?」 「うん。…ちょっとね」  これはやっぱり話しておいたほうがいいんだろうな。香港に着いた早々、こんなことになるなんて、どんな神様のいたずらなんだか。  タクシーでホテルに移動しながら、祐樹はどう説明したものか悩む。  

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