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「異動希望? なんで? その社長に会いたくなくて?」 「まさか。異動なんかしなくても、そんな簡単に会える人じゃないよ」  それにエリックとの二度のデート自体はふしぎに楽しかった気もする。会話の内容も楽しめたし、別段いやな思いをしたわけでもなく、無体をされたわけでもない。 「じゃあ、どうして?」 「3年くらい中国で仕事して、あのとき疲れがピークになってたんだと思う。香港返還間際であれこれ混乱してて…、一度全部リセットしたかったんじゃないかな」  エリックとのことは単なるきっかけになったに過ぎない。  上司と産業医との数回にわたる面談の末、胃潰瘍やノイローゼになる前に一度帰国させたほうがいいという判断になり、担当プロジェクトのめどがつき次第帰国ということになった。  そうは言っても担当案件はどれも簡単にはめどがつかず、おまけにエリックからの詫びのつもりなのか黄河集団の大口の仕事が入ったりもした。  これはこれで枕営業をしたつもりはないと祐樹の怒りを買ったが、エリックとの件を口外するわけにはいかないので、意地で担当して成果を出し(先方の担当はもちろん知らない人物だった)、皮肉なことにその案件のおかげで祐樹の社内評価はかなり上がった。  結局、祐樹が帰国できたのは希望を出した1年後の97年4月のことだった。  孝弘が祐樹を見かけたという広州の交易会は、じつは祐樹の帰国直前の最後の仕事だったのだ。  その後一年間、東京本社で勤務しながら、それでも年の半分近くを深圳で過ごしたが、多少なりとも日本で生活したことで精神的にはかなり落ち着いた。  何度か香港にも出張したが、もちろん連絡することはなかった。  ただ昨年、彼が再婚したことを経済紙の一面で知って、なんとなくほっとした。最初の妻とは6年前に離婚したことも、娘と息子がいることもその記事で知った。 「それ以来会っていないし、今さら心配する必要はないと思う。でも空港で陳さんと会ったから、香港入りしてるのは知られてるかもしれないけど」  祐樹からアクションを起こす気はさらさらないし、あちらもそんなに暇ではないだろう。  結婚もしたのだし、2年以上もまえに、ほぼ成り行きで一度寝ただけの相手に連絡をよこすとは思えなかった。  ただ秘書の陳はわざわざ独断で祐樹に会いに来たくらいだから、エリックによく似た孝弘の顔を見て、なにか思うところがあったかもしれない。  まあ、それも今さらどうでもいいことか。

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