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第5話

5 ネコ講座 ふぁああ。 俺は本日何回目かの大欠伸をした。 俺の机の前には大きな窓があるが、1日を通して強く日差しが差し込むことはない。 だが、程よい気候がぽかぽかと、眠気を誘ってくる。 窓からは遠くにグランドが見える。 保健室自体が校舎のはずれにあるため、グランドから保健室が見えることはまずない。 ここから見える午後の授業の様子も、豆粒ほどしか確認できない。 ふぁあ、あ。 昨夜、ちょっと遅くなってしまったせいでもある。 犯人は白木。 奴がしつこくメッセージを送ってくるのだ。 内容はいつも言い合い。 この間は俺が反故にした約束の件。 俺が破ったのだから無効だと言い張り、約束は白木のものだから俺には関係ないと俺が返す。その次は昼食を保健室で食べたいと言い出し、昨夜は俺の部屋へ連れてけとせがむ。いつも平行線で話が終わる。 一旦、諦めたかのような白木だが、諦めたわけじゃないことはよく分かってる。 とりあえず、引く。 これが白木のやり方だ。 本当に頑固者。 まあ、俺も頑固者だから、いつも平行線なんだが。 それでよく続いてると我ながら思う。 いつも何かしら言い合いをしてるんだからな。 「寺崎先生、眠そうですね」 そう入口から声を掛けてきたのは、化学教師の藍川だ。 「ああ、なんか用か」 「お茶でもしようかとお訪ねしました」 そう言って手に持った急須と湯飲みをにこやかに見せた。 藍川は白木ほどではないが、時々思い出したようにやってくる。特に話をするわけでもなく、ただただ茶を飲むためにきてるようで、そのついでに少しだけ世間話をする。藍川の持つ独特の空気感が、この部屋の空気に溶け込んで、特に苦にならない。 最大の特徴は急須と湯飲みを持参してくること。 ここにはポットはあるが、俺用のインスタントコーヒーとカップ(最近、白木用にもう一個増えた)があるだけだからな。 俺の返事も聞かず入ってくると、急須にお湯を注いで、自分の湯飲みと俺のカップにお茶を注いで持ってくる。 「よい天気ですねえ」 診察用の椅子に腰掛け、茶をすする。 「ああ、そうだな」 ふぁあ。 また欠伸をすると、藍川がくすりと笑った。 藍川といえば。 「生徒の件はどうなった」 「何の話でしょう?」 「前に同性愛に目覚めた生徒の話をしていただろう」 確か担任のクラスの生徒の話だった。 白木にした様な話をした気がするが詳しくは覚えていない。 「…ああ、覚えておいででしたか」 いつもなら覚えてもいないし、興味もないが。 白木の件があるからな、ちょっと気になった。 「で、どうなった」 「あれは……、もういいのです」 思わず眉を寄せた。 その様子を見た藍川が苦笑いする。 「……全て見透かされた気になりますねえ、寺崎先生の目は…」 「そういうわけじゃない」 ただ、こうやって話していて思い出したが、あの時の様子はかなり真剣に見えた。確か、大人になってからは、という先の話までした気がするが。 もういい、で済ませることに違和感を感じただけだ。 「…解決した、という事か」 「……まあ、そうなんですが…」 藍川はまた茶をすする。 「…………」 「……わかりました、白状しましょう。あれは、私の話です。正確には私の相手の話、ですが」 「……どういう事だ」 「告白されたのです、同僚だと思っていた男性に。親しくさせて頂いてましたが、告白をされるとは思ってなかったものですから。驚いて、寺崎先生に相談いたしました」 「同僚?」 俺の他にもそういう奴がいるとは驚きだ。 しかし何故俺にそんな相談をするんだ。 …保健医だから、性にも詳しいと思われてるんだな… 本当はそんなに詳しくはないんだが。 誰とも付き合ったことがない、とは言わないが、すぐ、本当にすぐ、嫌になった。ま、まあ、平たく言えば続かない。うざい、面倒臭い、うるさい。そう思わないのは白木とぐらいだ。 いや、思うのは思うのだが、苦にはならない。 …根負け、ともいうが。 「…ええ。そうですね、不公平なので白状しましょう。私の相手は村崎先生です」 ああ、あのやたらと無口な化学教師。 藍川に付き添って一・二度ここにも来たが、一言もしゃべらなかったな。 ん? 「不公平てなんだ」 「実は村崎先生が、先日ここで見てしまいまして」 見た? 何を? …………まさか……… 「…放課後、ちょっと実験に失敗して怪我をした村崎先生が保健室に行ったんです。そしたら中から、寺崎先生らしからぬ声がしたので、そうっと覗いたら、生徒の白木くんでしたか、と真っ最中だったと」 ぼっと顔が熱くなった。 「そ、そ、…」 「あ、大丈夫です。私にしか話してらっしゃいませんし、その後他の人が来たら困るだろうと、離れたところで見張ってたそうですから」 そ、そう言う問題じゃないんだが。 俺は頭を抱えた。 白木め。 お前が突然サカるから、こんっなことに~~~! 「…先生?少しお聞きしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか」 ………。 お前、よくこんな状態の俺にそんな冷静に声がかけられるな。 「…なんだ…」 藍川は手の中の湯飲みをくるくる回した。 「…実は、本日伺った目的でもあったのですが」 だからなんだ。 「実は私、あの後村崎先生とお付き合いを始めたのですが。まだ、身体の関係を持っていないのです」 は? だがあの話は今年の初めだった様な気がするぞ。 もう秋じゃないか。 「………」 藍川は苦笑いする。 「原因は私にあるのです」 「…どんな…」 「その、寺崎先生は抵抗や恐れはありませんでしたか?」 なるほど。 「怖いのか」 「まあ、そうなりますね。…女性とは経験あるのですが、男性はないですし、ましてや求められると…。未知の領域なだけに、不安や恐れが先立ってしまって。それを村崎先生が察して、関係が持てずにいるのです」 なんとも、ぬるい関係だな。 あ、いや、人それぞれか。 「俺は、抵抗という抵抗はなかったが」 「そうですか?何故でしょう、寺崎先生も男性は初めてでは?」 「そうだな。だが、最初自慰の延長から始まったせいかもしれない」 「…それはいわゆる、カキッコということですか」 ろ、露骨な言い方だが、じ、事実だな。 仕方ない、な。 「…まあ、そうともいう…」 「そうですか」 藍川は少し俯く。 「お前達、そういうのもないのか」 素朴な疑問を投げる。 「はい、ありません」 「よく、平気だな」 思わず口にしてしまって慌てる。 人それぞれだ。 その、性欲の薄い奴だっているだろう、うん。 いや、別に俺がつ、強いとは思ってないが。 「いや、すまん。なんでもない」 「平気ではないので、こうして話しております」 「…そうだな、ん、すまん」 そうか。 そうだな。 人並みなのかもしれん。 ……俺が、おかしいのか? いや、そんなことは、ない、はずだ。 俺も藍川が淹れた茶をすする。 「やはり最初は痛いものですか」 思わず噎せた。 おい、そんなこと聞くな。 そう思って藍川を見たが、意外な程真剣な表情をしていたので気が失せた。 「…痛かったといえば、そうだな。だが、俺は慣らされた期間が長かったから、な」 「期間?どのくらいでしょう」 そこまで聞くか? で、なんだこの、答えなければならないような空気は。 「…ゆ……指だけで、に、2週間は、あったと思う」 「それは、長いですねえ。それだけあれば、痛みもなくなりそうですね」 なんだこの藍川の真剣さは。 「……お前、キスはしてるのか…」 藍川が頬を染める。 「はい、軽くですが」 「軽く、ねえ」 俺は藍川を見ながら、頬杖を付いた。 こいつ、根本的に知らないんじゃないか。 強く、相手を求めるということ、を。 「………なんでしょう?……」 俺がじっと眺めていることに、いたたまれなくなったのか藍川が言う。 「…お前、村崎が好きか?」 また頬を染める。 意外だな、白木みたいな反応をする。 「…ええ、まあ…」 「つまり、その程度、か」 ちょっとムッとした藍川が睨んでくる。 「俺も最初はその程度だった。だが、どんどんハマっていった」 「………」 「キスや、自慰の延長を繰り返して、どんどん気持ちが深みにはまっていく。ついには性行為で戻れなくなった」 「………」 藍川は聞き入っている。 俺は今までを振り返っていた。 藍川を見てると、最初の、毎日やってくる白木を待っていた頃を思い出す。今思えばまだあの頃は淡いものだった。最初はうざかったが、毎日、会って、白木がくだらない話をするのを聞いて、帰っていくのが寂しかった。休み時間のたびに入口を何度も振り返っていた。気付いたのは告白されてからだったが。認めたくなかっただけかもしれない。と、最近思う。 キスをして、白木の熱を覚えると、思いは加速した。 体が白木の熱を欲しがり始める。 快感を与え合って、白木の熱い吐息や手の温かさ、快感に歪む白木の顔が忘れられなくなった。 「あれは共有する時間だ」 「え」 「性行為は快楽を共有するための時間だ」 「…はい…そうですね…」 「与え合う快感が、さらにお互いの悦楽を呼ぶ。相手が快感を得ることで、さらなる快楽が自分に生まれる。お互いの思いを確認する。どれだけ思われているか、快楽と優しさで教えられる、…教え込まれる時間だ」 白木が感じれば、俺の感覚が鋭くなる。 優しくされれば、快感が加速する。 「あれは、いい」 思わず、反芻してしまう。 一度きりの快楽。 自慰の延長ではなく、本物の与え合う時間。 白木の熱、呼ぶ声、指、吐息。 繰り返し、呼び戻される記憶。 辿るように蘇る、熱。 「いい、ですか?痛みなどはなく?快感だけ、ですか?」 「痛みは最初だけだ、慣れればそれほどはない。だが異物が侵入してくる圧迫感はずっとある。その後、快感でどうでもよくなるだけだ」 ……………。 「…圧迫感、ですか」 「だが、俺の話はさほど参考になるとは思わないぞ。何しろ俺たちもあれ一回っきりだ」 …………。 一回きりだからこそ、おそらく余計に記憶が繰り返されるのだろう。 焦がれ、飢える。 「え?そうなのですか、てっきり」 「卒業までしないと約束した」 馬鹿な約束。 いや、あの時は最善策と思われた、約束だ。 俺の中で、一番後悔した約束だが。 「あ、生徒ですからね、白木くんは」 「ああ」 俺はふとカップの中の茶に視線を移した。 「藍川」 「はい」 「引き返すなら、今だ」 「え」 「軽いキスで済んでる今なら引き返せる。それ以上は、もう、戻れなくなる。決断しろ」 「進むか、戻るか、ですか」 「決めたら、しろ」 藍川が赤くなった。 「…出来るなら、した方がいい…」 嘘偽りない本心だ。 「……いい、ですか…」 「ああ、いい。…したくでも、出来ないよりはいい」 カップを揺らし、底の方で揺らぐ水面を眺める。 「……寺崎先生、欲求不満のように聞こえますが」 「否定できん。…俺はしなきゃ良かったと、今更だが後悔してる」 藍川が吹き出すように笑う。 「先程、勧められたじゃありませんか。矛盾してますよ」 「…しなかったら、欲しくなることもなかった」 何度も思い出す。 自分で慰めても、満足できない。 白木に触らせても、その時だけだった。 またすぐ欲しくなった。 白木が、いつもそばにいればいいのにと思うようになった。 白木を思って、体が熱くなることもなかった。 ふうっと熱くなりかけた身体の熱を吐き出した。 「……なるほど、夢中になるんですね、よくわかりました」 俺は視線を藍川に向けた。 「…村崎は優しいんだろ…」 「…はい、優しいですよ、残酷なくらい」 藍川は苦笑いのような、微笑みを見せた。 「そしてお前もそうやって悩むくらいには、村崎を思ってるわけだな」 「……そうかも、しれませんね」 「なら、やはりするべきだな。お前がハマるのを見てみたい」 俺と同じようになるのか。 「そうですね、…そうかも、しれません。…いくら村崎くんが優しくても、いつまでも待たせていては気持ちが冷めてしまうんじゃないかと、心配になってしまって」 ん?心配? 冷める? 「寺崎先生は心配になりませんか?そのお聞きする限り、卒業までお互い我慢をしてるんですよね?」 そ、そうだが、それがどうした。 「ど、どんな、心配、だ」 心配って、なんだ。 「白木くんの気持ちをこれっぽっちも疑ってないようですね、羨ましい、私はまだそこまで確信が持てなくて。私なら心配で、与えられるものは与えてしまいそうです」 疑ってない? 確かに疑った事はないが。 というより、考えた事がないぞ。 「…………」 「白木くんは若いですし、性への興味も強い時期でしょう?私も覚えがありますよ、それこそサルみたいに。ましてや白木くんは快楽を知ってますからね、気持ちは変わらなくても、誘惑にどれだけ耐えられるだろうと、心配に」 性への、関心。 サル。 快楽知ってる。 誘惑? ………。 そこまで話して、藍川は急に言葉を切った。 「…これは、私、余計なことを言ってしまったようですね…」 あいつは、…あいつは。 「…誘惑には、弱いぞ、あいつは」 「いえ、私はそんなつもりでは…」 あいつは…。 「簡単に堕ちるし、簡単に勃つぞ」 「あ、寺崎先生、ちょっと落ち着きましょう?別に白木くんがそうだとは」 あいつは。 「あいつがモテる事も知ってる。前に恋文を貰ってた」 親友は邪な気持ちであいつを見てるし、きっと何気に触ったりするのも汚らわしい下心いっぱいで。 そのうち俺としたみたいにカキッコとか称して、やるんじゃ。 いやいやいや、やってないかもしれんが、俺が知り得る事じゃないからな、本当のところはわからん。 そういえばあいつの女の好みはどんなだ? エロ本見るとか言ってたな、もっと詳しく聞いとくべきだったか? 例えば胸の大きな女がすり寄ってきたら、あいつは…。 「寺崎先生!」 藍川が慌てて、俺の肩を揺さぶってきて、はっとした。 「あ、なんだ」 「すいません、私、不安を植え付けるつもりではなかったのです。忘れてください」 「…いや、わかっている…」 だが、心に芽吹いた不安は簡単に消えそうにない。 というか藍川の言う通り考えなかった方がおかしい。 俺はどれだけ欲求不満なんだ。 「これは、困りました」 俺が完全に不安に囚われてしまったことに気づいて、藍川は苦笑いする。 「あ、れ?」 入口から声がして二人で振り向くと、白木が立っていた。 「おや、もう放課後ですか?長居してしまいましたね。教室に戻らなくては」 慌てて席を立って、藍川はぺこりと頭を下げた。 「お邪魔しました」 そして若干放心したままの俺を気にしながらも、出て行った。 白木がすれ違いざまお辞儀をした。 その様子を呆然と眺める。 白木の気持ちが簡単に動くとは思わない。 だが理性は、そこまで強くないはずだ。 まだ子供。 覚えたての快楽。 俺も大差ないが、少しは大人だ。 理性もある。 もちろん白木にも理性はあるが。 しまった、また思考が回り始めた。 ぐるぐる答えが出ない思考の渦だ。 不思議そうな白木の顔が、俺を見つめていた。 白木、俺にはもう、お前を手放す選択肢はないんだ。 お前には、あるのか?

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