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アットホーム 第8話
コーヒーを飲みながら、窓の外を眺めた。
そういえば、この店に入るまでは……
村雨は、雨のせいで具合が悪くなって歩くのもやっとの状態だった。
店に入る直前までは吐き気と頭痛も酷かった。
いつもならあれだけ酷い状態になると、薬を飲んでも治まるのにはかなり時間がかかるのだが、ここに入ってからは身体の不調を感じることはなかった。
なんでだろう……こんなにすぐに治まったのは初めてだ。
店に入ってから気になることが多すぎて、昔のことを思い出している余裕がなかったからか?
いや、違う。
昔のことは思い出した。
昔の幸せな記憶を――
あれは村雨が前に進むために、嫌な記憶と一緒に頭の奥に閉じ込めてしまっていた、幸せな記憶。
少し前まではその幸せな記憶さえも、嫌な記憶だと思っていた。
思い出すと辛いから――
でも、さっき思い出した時は、ただ懐かしかった。
素直に懐かしいと思えて、思い出せたことを嬉しいと思った。
不思議な店だな……
雨の日にこんなに心穏やかになれたのは、久しぶりだ。
窓の外を見ているフリをして、そっと店内を見る。
相変わらず、マスターと常連客が漫才のような掛け合いをしては笑いあっている。
もう一人の客も、二人の話をにこにこしながら聞いている。
それを見ている村雨も、なんだか顔が綻んでくる。
会話に参加していなくても、疎外感を感じない。
この店には、アットホームという言葉がぴったりな気がする。
初めてきたはずなのに、懐かしい感じがして落ち着く……
もちろん、最初はいろいろと驚きの連続だったが、マスターの硬い表情も理由を知ってしまえば可愛く思えて来る。
それに、会話をする度に少しずつ表情が柔らかくなっていくのを見ていると、常連になってマスターに笑顔を向けられてみたいと思ってしまう。
いや、だから男に可愛いってなんだよっ!!
気がつけば、もうカップの中は空になっていた。
時計を見ると、結構な時間が経っていた。
うわっ、もうこんな時間なのか!
慌てて立ち上がると、急いで会計を済ませた。
「だいぶ顔色戻られましたね。良かったです」
「え?」
おつりを受け取っていると、マスターが村雨の顔を見てあの甘い顔で微笑んだ。
「ここに入って来られた時、顔色が良くなかったので……」
「あぁ……はい、もう大丈夫です。ここのコーヒーのおかげです」
お世辞じゃなくて、本当のことだ。
コーヒーと、この店の雰囲気と、常連客と、何よりマスターのおかげ。
村雨が口元を綻ばせると、マスターがぱっと目を逸らして俯いた。
「あの、は……はちみつ、他のコーヒーに入れてもおいしいので、良かったら試してみてくださいね!」
俯いたまま、一息に喋る。
そのマスターの耳が赤く染まっていた。
「かっ――……」
村雨は口から出かけた言葉を急いで飲み込んだ。
マスターの反応を可愛いと思った自分に少し面食らう。
可愛い……じゃなくてっ!!
これはただの人見知りの反応だからっ!!
「はい、試してみます。ありがとうございます」
冷静を装って、マスターから折り畳み傘を受け取った。
「こちらこそ、またお待ちしております。ありがとうございました」
外に出ると、もう雨は止んでいた。
***
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