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気になる人 第9話
初めて『レインドロップ』に来た日から数か月。
日によって訪問先は変わるので、いつもあの道を通るわけではない。
通ったとしても、訪問の途中だったり、急いで会社に戻らなければいけなかったりで、寄り道をしている時間がない。
それでも、外回りの最中に雨が降った時には、出来る限りこの店に来るようにしている。
たった数分でもいい。
『レインドロップ』の温かい雰囲気に包まれるだけで、気分が楽になった。
村雨にとって『レインドロップ』は、心の避難場所 だ。
雨の日の嫌な記憶ではなく、懐かしくて楽しかった記憶を引き出してくれる。
おかげで、雨の日でも以前のように憂鬱になったり、マイナス思考になったりすることが減った。
マスターは、最近ようやく自然な笑顔を向けてくれることが増えてきた。
かといって、常連客のようにマスターと気軽に会話をするわけではない。
常連客に話を振って来られてたまに混ざることはあったが、大抵は常連客とマスターの様子を眺めているだけだ。
それだけで十分だった。
下手に会話したら、なんか妙な気分になっちゃうしな……
ここに来るようになったのは全体の雰囲気が気に入ったからだが、それとは別にマスターが気になる。
気になっている理由が自分でもよくわからないから余計に気になる。
マスターに笑顔を向けられるとドキドキしてしまう。
男相手にドキドキしている自分に戸惑う。
それなのにまた笑顔が見たいと思ってしまうのだ。
マスターは、たまに村雨と目が合うとすぐに目を逸らしてしまう。
真っ直ぐ目を見てくれるのは、迎えてくれる時と、見送る時だけだ。
それに、おつりを貰う時に村雨の指先が少し触れると、ぱっと指を引っ込めて真っ赤になってしまう。
あれも……人見知りのせい?
女の子がああいう反応をしてたら、ほぼ確実に自分に好意があるんだってわかるけど……
マスターは男だしな~……もちろん俺も男だし?
やっぱり、あれはただ緊張してるだけなんだろうな。
「ん~……マスターはね~……努力家だね。一生懸命努力して自分の夢を叶えて来た人だね」
常連客がマスターの掌に大きなルーペをかざしていた。
最近手相を勉強しているらしく、マスターの手相を見ているのだ。
「努力家ですか?でも、このお店は祖父のものでしたし、わたしはただ後を継いだだけだから――」
「後を継ぐっていうのは誰にでもできるものじゃないよ。後を継げるように、ちゃんと若い時から先代からコーヒーのことを学んできたんだろう?今この店をちゃんとやっていけてるのは、マスターの努力の賜物だよ。自分のことをもっと誇りなさい」
「はい!ありがとうございます!……なんだか先生がすごい先生っぽいですね!!」
「そうだろう?たまには真面目なことも言うんだよ!」
この常連客の『先生』は、昔小学校の校長をしていたらしい。
だからいまだにみんなから『先生』と呼ばれている。
たしかに、今の話は先生っぽいな。
「自分のことをもっと誇れ」
俺も学生時代にそんなことを言ってくれる先生に出会いたかった。
……それはそうと、ちょっと手握り過ぎじゃないですか?
もう手相を見ていないのに、いつまでもマスターの手を握っている先生に少しむっとする。
マスターも……俺とは指がちょっと当たっただけでもすぐに引っ込めるくせに、先生に触られるのは別に大丈夫なんだ?
そりゃ、俺は先生ほど常連じゃないけど……
ん?って、なんで俺がむっとしてるんだよっ!!
またよくわからない感情を抱いてしまった自分自身に首を傾げながら立ち上がると、店を出た。
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