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残り香 第16話(レイニーデイ第6話)
――Prrrr
急に店の電話が鳴った。
その音に、お互い夢から醒めたかのように固まる。
先に動いたのはマスターだった。
覆いかぶさっていた村雨の胸を腕で押しのけると、電話に手を伸ばした。
「はい、カフェ『レインドロップ』です……あ、先生!どうしたんですか?――」
電話は常連客の『先生』からのようだった。
受話器を持つマスターの手が少し震えていた。
俺……今何した?
マスターに……
え……?
いや、ダメだろ俺……
マスターに何か言わなきゃと思うのに、言葉にならない。
村雨は、「ごめん……」と、やっとの思いでその一言を絞り出した。
電話をしながらマスターがこっちを見たような気がしたが、村雨はマスターの顔を見ることができなかった。
マスターがどんな顔をしているのか見るのが怖い……
無意識に荷物に手を伸ばすと、マスターの横をすり抜けて逃げるように店を飛び出した。
***
村雨は、帰宅するなり玄関で崩れ落ちた。
なんで俺はマスターにキスをしたんだ?
いくら綺麗な顔をしていてもマスターは男だっ!
俺は別に、男が好きなわけじゃないのに……
だいたい、マスターとまともに会話をしたのは今回でまだ2回目だ。
親しいと言えるような間柄でもないし、お互いのこともよく知らない。
俺が知っているのは……
極度の人見知りで、すぐに赤くなって、でも克服しようと一生懸命努力していて、コーヒーに詳しくて、美味しいコーヒーを入れてくれて、実は結構おしゃべりで、常連には冗談を言うこともあって、笑い上戸で、笑顔が可愛くて――……
そこまで考えて、ふと顔を上げた。
あぁ……俺……マスターのこと好きなんだ……
『レインドロップ』に行くと、雨の日の不調がマシになる。
だから、雨の日には『レインドロップ』に行くようになった。
でも、『レインドロップ』に行く本当の理由は、コーヒーの匂いでも、あの店の温かい雰囲気でも、面白い常連客でもない。
マスターだ。
マスターの笑顔を見て、声を聴くと、雨の日も気持ちが晴れた。
もっと笑顔が見たくて、
その笑顔を自分に向けて欲しくて、
他人に笑いかける姿に嫉妬した。
冷静に考えると、それはもう完全に、「恋」だ。
たぶん、本当はもう自分でもわかっていた。
晴れの日も行きたいのに、なんだかんだと理由をつけて行かなかったのは、頭のどこかでそれを認めたくない気持ちがあったからだ。
だって、認めてどうなる?
恋をしていると認めたところで、俺もマスターも男だ。
「あなたに恋をしました」なんて、同性に言われてもマスターを困らせるだけだろう?
それに、俺も男を好きになるのなんて初めてで、じゃあマスターとどうなりたいかと聞かれたら……よくわからない。
思春期に初めて恋をした時以上に、自分の気持ちを持て余していた。
だから、この気持ちは恋じゃないと思い込もうとしていた。
俺が好きなのはあの店の雰囲気で、マスター個人じゃないと。
ため息をついて立ち上がると、冷蔵庫からビールを取り出した。
一気に半分程飲み干す。
どうなりたいわけでもない……ただ、好きなんだ……
店に行って、そっとマスターの顔を見ているだけで良かった。
でも、さっきは……
性別とか関係なくただ、マスターにキスしたいと思ったんだ。
抱きしめてキスしたいと思った。
最初は二人共なんとなく雰囲気に流されてしまったのかもしれない。
言葉は交わさなくても、なんか暗黙の了解でどちらからともなく……ってあるだろ?
それでも、あんなにするつもりじゃなかった。
一回で止めておくべきだった。
それだと、まだ笑い話にできたかもしれない。
なのに、真っ直ぐ見つめ返して来るマスターの瞳に惹きこまれて、
近づいたらふわりといい香りがして、
重ねた口唇が、柔らかくて、気持ち良くて、
キスに蕩ける顔が、喘ぐ声が、想像以上に可愛くて、
このまま、もっとぐちゃぐちゃに抱いて啼かせてやりたいと……思ってしまった――
あの時電話が鳴らなければ、今頃俺は……
いや、危なっ!!
キスだけで理性飛ばすとか、童貞かよっ!!
キスはなんとなく流れだったとしても、その先の合意は得られていないし、得られるはずもない。
キスだけでも十分セクハラだけど、その先行ってたら完全に強姦じゃないか!!
電話をかけてきてくれた先生に感謝しなければっ!!
心の中で、先生に手を合わせた。
マスター怒ってるかな……
怒ってる……よな。
あんなことをしておいて、ちゃんと謝ることもせずに逃げだしてしまった――
情けない……
テーブルに突っ伏すと、自分の服から微かにマスターの匂いがした。
村雨は、マスターの温もりが残る口唇を指でそっとなぞって大きく息を吐いた。
あ~くそっ!!!
生まれて初めての同性相手の恋は、想いを伝える前に自分自身で終わらせてしまった。
それも、一番最悪な方法で――
後悔は、後から悔やむと書く。
自分の迂闊な行動を後でいくら悔いても、どうにもならない。
もぅ、あの笑顔が自分に向けられることはないんだと思うと悲しくて胸が苦しい……
でも、そう仕向けたのは自分だ。
自分のあまりの滑稽さに自嘲めいた笑い声しか出なかった――
***
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