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道路の向こうのカフェで手袋をはめた指先でコーヒーカップを口元に運ぶ姿は実に優雅で美しかった。黑いロングドレスが良く似合って、しなやかな背に蓮の花が僅かに透けて見える。まさに観音菩薩の脇持、いや観音菩薩そのものの具現だった。
私は逸る気持ちを抑え、ゆっくりと彼に近づいた。周囲にはミハイルの部下達がいたが、この街中で発砲するなどという愚かな真似はできよう筈もない。
「ごきげんよう、レディ」
私は騎士よろしく礼儀正しく笑顔で挨拶をした。
「ロシアくんだりまで何の用だ、崔。お前との取り引きは無い筈だが」
ミハイルが不機嫌そうに、だが抑えた声音で言った。まるで獅子の唸り声そのものだ。
ー野蛮な獣め....ー
この美しい女神を欲望のままに組み敷こうなどと、まったくもって許しがたい所業だ。だが、私にも分別はある。
私は微笑みをたたまま、怒りを抑えて答えた。
「私は美しいものが好きなのでね。ロシアの至宝を観賞させてもらいに来たのだよ。......レヴァントの秘宝まで拝見できるとは、私は実に幸運だ」
レヴァントは、私をふっ.....と鼻で笑い、だが威嚇のオーラを最大限に放っていた。
「お前のような奴に見せるのは勿体ないんだがな」
「おや......東洋の美しい品々を奪い去っていくのは西洋の蛮行の最たるものだと思うがね。......そうは思いませんか、レディ?」
「俺はレディじゃねぇ!」
彼はレヴァントに洗脳されているのか、表情をこわばらせて身構えた。微かに面に浮かぶ怯え。不機嫌そうな陰影の揺らぎさえ美しい。
「これは失礼.....ミスター-レヴァント、レディはご機嫌が悪いようだ」
私は皮肉めかして口許を歪め、眉をひそめた。やはり彼に、この美しい存在にレヴァントは相応しくない。彼に寄り添うのは、ナーガラージャの王たる私だ。傍若無人な獅子などではない。レヴァントは威嚇の視線をなお強め、言い放った。
「ウチのパピィは繊細なんだ。怪しい輩には近付いてもらいたくないな」
「それは残念」
獣を狩るには時がある。まずは彼をレヴァントの洗脳から醒まさなければならない。私は彼を一瞥して背を向けた。
「いずれまた、お会いしましょう、レディ。是非、私のコレクションをお見せしたい」
「遠慮しておく」
はっきりした物言いは私は嫌いではない。いや、衆生の上に立つ女神にはその気位こそが相応しい。
私は待たせていた車に乗って走り去り、その日のうちにサンクトペテルブルクを発った。私の脳裏には、黑い薄絹の内で薄紅の蓮の花がゆらゆらと私を招いている様がはっきりと浮かんでいた。
そしてその夜、私は悪夢の無い夜を何十年かぶりに過ごした。私を責め苛む赤毛の悪魔達の姿も断末魔の悲鳴を上げる血塗れの『素材』の怨嗟に満ちた眼差しもない。
ただ、あの子が......私が殺し得なかったあの小さな少年がオレンジ色の花畑のなか、白桃の頬に満面の笑みを湛えて、大きく手を振っていた。
私は忘れていた心地よい目覚めに女神の加護を噛み締めた。
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