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 弓張の月がかなり丸みを帯びてきた。満月の夜までに苓芳(レイファ)の魂を宿した青年の内に染み込んだあの獣の毒を拭い去らねばならない。 「ん....んふっ...やめ...」  私はきめ細やかな象牙色の肌に指を這わせる。胸に触れ、稜線を辿り...そして俯せて揺らめく聖なる蓮花を愛で、口づける。   「美しい...。淡い月の光に晒されて、本当に浄土の蓮の花が揺れているようだ...素晴らしい」  私は感嘆の息を漏らしながら、月影に浮かぶ救済の花弁を指先でなぞる。蓮の臺に身を託せる者達のなんと幸せなことか......。朗らかな凡夫として生を全うできる者のあまりにも少ないこの地上の、なんと無情なことか.......。 「あんた、勃たないのか?」  彼は唐突に、ほんの少し躊躇いつつ、だが勇敢にも私に問うた。その気遣わし気な、心配そうな目線に私は率直に答えた。その眸には揶揄も嘲りも憐れみもなく、ただ悲しそうだったからだ。 「済まないが...拷問で潰されてね。大丈夫だ。式を挙げたら君にも処置するから....そうすれば『性』などという不潔なものに煩わされなくて済む」  如何にも穏やかに、けれんも気負いもない淡々と私は言った。 「あんたは、俺を女にしたかったんじゃないのか?」   彼はさっと顔色を変え、私に訊き返した。一度揶揄ったことはあったようにも思うが、如何にも世俗的な発想に私は思わず苦笑した。 「観音菩薩は男だ。性という禍々しさから解放された男だ。苓芳(レイファ)はずっと憧れていた。あんなに美しい存在はない....と」  そう、善女竜王は悟りを開くにあたって、八歳のその肉体を男性化させた。だが、解脱を果たそうとするにあたって『性』などというものが必要であろうか?瞑想を進めれば、身体のチャクラを活性化させ、クンダリニーのエネルギーを上昇させることは不可能ではない。いずれ性器を取り去れば否応なしに『性』に対する依存から脱却せざるを得ない。私のように......。その道のりは苦しいが、なに私が全身全霊をもって導こう。 「あんた、子どもはいなかったのか?」  彼が唐突に問うた。私には最も不快な問いだ。 私の眼裏にあの幼い少年の姿が浮かんだ。 「結婚してから...と約束していた。だが苓芳(レイファ)と私の子はこの世に生を受けることはできなかった。....苓芳(レイファ)の子のいないこの世に子どもなど存在していて良い筈がない。なのにあの男は....」 「え?」 「あのドイツ人は、私の周囲を探っていただけでなく、息子をいたく愛していた。私達の持ち得なかった子どもを....」  私は.......。 「だから私は子どもを寄越せと言ったのに....そうすれば見逃してやったのに...私の申し出を拒否したばかりでなく、私の城を破壊させた」  そうだ。私はあの子が欲しかった。神に愛された天使のような少年。あの子どもはリヒャルトのような西洋の獣の子として生まれるべきものではない。私と苓芳(レイファ)の子どもとして、神仏の加護のもとにこの世に降ろされるべきものだった。  彼は両の眼を見開き、唇を震わせて呟くように私に問うた。 「....もし、その男があんたに子どもを渡したら...その男から子どもを取り上げたら、あんたはどうするつもりだったんだ?...殺したのか?」  私はあの夜、あの子どもの潜んでいたチェストに銃口を向けた瞬間を思い出した。私はあの時、邪魔が入らなかったら、銃爪を引いていただろうか........それとも...。 「たぶん......。だが、あの子どもは珍しい子だった」 「珍しい?」 「私に....この私によく笑いかけてきた」  そう、『地獄』を背負い、闇の中に身を沈めて、全ての破滅を願っていた私にさえ、屈託の無い笑みを向け、血に染まったこの手をその愛らしい手で握りしめた。その小さな指で懸命に私を人間の領域に繋ぎ止めようとするかのように......。  私は私の中の眩惑に戦き、部屋を後にした。密林で怪しく鳴く鳥の声が夜の静寂を切り裂いて、響き渡った。

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