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 気分は最悪だった。  瞼が酷く腫れぼったく、重い。それに、普段剣闘試合でも痛めたことのない箇所が痛む。腰と股関節が軋み、肛門が焼けるように痛い。 「っぐ、う、ヴ……」 「おや、起きたか」  闘技場で負うどんな傷よりも不名誉で、不愉快だ。  目を抉じ開けると、黴がびっしりと這った天井が映る。血と薬品と使い古した包帯の匂い。 「あいつァぶっ殺す……」 「起きて一発目がそれかい」  ブラックドッグの横たわる寝台の側に医者のダレントが来て、枕元に水差しを置く。  声が嗄れていた。途中から記憶が途絶えている。どれだけの間、悪趣味の客人に見世物を披露していたのか、まったくわからない。  ギョロリと血走った目を向けると、ブラックドッグの上背の半分ほどしかない小柄な老人は呆れたように嘆息する。 「まだ起き上がんじゃないよ。薬がまだ抜けきってない」 「んなもん関係ねえ……」  肘を突いて上体を起こそうとするが、ガクンと力が抜けて再び硬い寝台に沈んだ。  ダレントは養成所で使役されている奴隷のひとりで、度合いに関わらず怪我の絶えない剣闘士たちの治療をさせられている。骨に皮膚を纏ったような痩身で、顔面は黒いシミと深い皺だらけ、ぼろ布を纏った汚い出で立ちだが、彼の腕は確かだった。ブラックドッグも過去、闘技場で負った重傷を縫合してもらったことがある。 「真夜中に叩き起こされて何だと思ったら、失神したお前が運ばれてきた。旦那様も、試合と訓練以外で剣闘士に怪我を負わせないで欲しいもんだ」 「怪我じゃねえよ」 「関節と粘膜の炎症だね」  ダレントの嫌味を聞き流しながら、完全には力の入らない腕を動かして首筋に掻いた汗を拭った。土壁に覆われた埃っぽい医務室は熱気が蔓延し、息を吐くと全身にぶわりと暑さが襲ってくる。  全裸だったが、全身に塗りたくられた香油の不快さはなく、体液の残滓は見られない。既に清められた後だった。  遠くから、鈍い殴打音と男たちの野太い叫び声が聞こえてくる。もう日は高く昇っていた。 「訓練……」  どれだけ身体が不調を訴えていようと、奴隷剣闘士たちは研鑽を怠ってはならない。闘技場の砂の上でその屈強な肉体をもって目を瞠る戦いを披露し、命を賭して観客を熱狂させることが仕事なのだ。鞭で打たれ、食事を絶たれたいのであれば別だ。 「今日一日は休ませろと旦那様から仰せつかってる。尻が痛くて戦うどころじゃないだろう」 「これくらい大したことねえ……」  どれだけの重傷を負いどれだけの血を流そうとブラックドッグは屈せず砂の上に立ち続けてきた。それを、たかが男ひとりのせいで身動きが取れないなどという屈辱、あってはならないのだ。 「あいつの脳天ぶちまけてやる……」 「その身体じゃ無理だね。薬抜けてないって言っただろう。俯せになりな」 「あ?」 「軟膏を塗ってやる」  だが、身体が不調を訴えていることは確かで。薬の副作用と思われる頭痛や、身体を酷使させられた結果の関節の痛みはともかく、尻の狭間の、ひりついた違和感だけはどうしても拭えない。  唸りながら、倦怠感の残る身体を渋々反転させ俯せになった。 「手負いの獣が大人しいな。相当堪えてるか」 「うるせえ死に損ないが、黙ってさっさと終わらせろ」 「わかったから、早く脚開きな」  引き攣る内腿を、嫌々開く。昨夜と同じ体勢だ、と思えば屈辱が甦り首筋に熱が上る。  ダレントのほとんど骨の手が、筋肉に覆われた硬い尻たぶを掴んで拡げ、窄まりを露にする。昨夜何度も異物が通ったそこは、じんじんと熱を持って腫れぼったい。  皺だらけの細い指先で、冷たくぬるついた軟膏が塗り込められる。 「ん゛ッ……!」 「暴れるんじゃないよ」  反射的に波打った背中を、ぐっと押さえ込まれる。  昨夜も、背後にのしかかる男に項を押さえられ、荒々しく腰を打ちつけられた。硬く太く勃起したペニスで内側の粘膜を擦られ、腹の奥を穿たれた。指だってこの医者とは違って常に剣を握る者らしく太く歪で乱暴だった。 「っ……」  膨張した亀頭が、容赦なく肉壁を削りながら進んでくる。ただ射精することだけを目的に己の快感を追い求め、狭い気管の中に幾度も出し入れする。  内部を傷つけないよう優しく撫でる医者の指に、まったく正反対のあの男の挙動を思い出す。  己の状況に諦めをつけ一度割り切ったが、あの茶番に納得した訳ではない。なのに、指で丹念に拡げられ十分に濡れた粘膜は苦痛を拾わず、快楽だけを受け取った。確かにあの男に貫かれて、正体を失うほど溺れていたのだ。 「無様な姿だ。獣にはよく似合っている」  冷水を浴びせるような、抑揚のない声が意識を引き戻す。 「……っ、てめえ」  俯せのまま首を巡らせると、部屋の入り口に褪せた金髪の男が壁に背を預けて佇んでいる。 「あれしきの行為でここまで弱るなんてな」 「誰のせいだと……てめえもやられてみるか」 「こら、動くなブラックドッグ。痛くされたいのかい」 「ア゛っ……!?」  怒りに従順な身体が衝動に任せ動こうとするが、ダレントの指が内側に突き立てられ、腰を波打たせブラックドッグは寝台に沈んだ。 「だが、昨夜のおかげで貴様のあしらい方がわかった」  シーツに息を殺し唸りながら、ゆっくりと近づいてくる男に射殺さんとするほどの苛烈な視線を向け続けていた。ダレントの処置を受けていなければ、今すぐ殴り殺しているところだ。  見下ろす視線はまるで畜生でも見ているかのような冷たさで、それが一層憤りと憎悪を煽った。  ふたりとも同じく屋敷へ呼ばれたのに、苦痛を強いられ身動きも取れないほどの状態になったのはブラックドッグだけだ。この男は何の代償もなく、辱しめを受けるもなく、ただ性欲を打ちつけていただけではないか。  それが、どうしてこんな目をできる。 「殺す……」 「だから、動くなと。アレウスも煽るんじゃないよ。こいつの尻に薬を塗り終わったら次はお前だよ」 「……ああ? 何でこいつに薬が必要なんだよ。こいつはただ俺の上でひたすら腰振ってただけだ」 「貴様、俺に負わせた傷を覚えていないのか」 「は? 逆はあっても……」  ダレントの指がゆっくりと抜けていき、ブラックドッグはようやく身体の緊張を解いて息を吐いた。  ダレントは濡れた手を拭いて隣の寝台にアレウスを座らせる。上体を傾けたことで見えた彼の言う傷に、ブラックドッグは目を瞬かせた。 「……なんだ、それ」 「だからお前がつけた傷だよ」  ダレントが呆れたように言い聞かせながら、違う軟膏をアレウスの背に塗っていく。  筋肉の隆起する背中には、無数の細長く赤い線が走っていた。まるで動物の爪に引っ掛かれたような。 「みみず腫どころじゃない。血が出ていたんだぞ」 「俺がやったのか?」 「ああ、貴様が引っ掻いた」  そんなのは記憶にない。意識が混濁した後のことは、まったく覚えていなかった。 「泣いて悦がって縋りついて、俺の背中に爪を立てた。記憶を失くすほど溺れていたらしいな」 「……てめえ、その姿で訓練に出たか」 「当然だ。参加しなければ鞭で打たれる」 「阿呆か、そんな傷周りに見られたら」 「阿呆は貴様だ。俺とお前が寝たと誰が想像する」  断言する冷酷な声音に、ブラックドッグは口を閉ざした。 「他の連中は、俺とお前が昨夜屋敷に呼びつけられたのは貴族のご婦人の相手をするためだったと思っている」 「……確かに、普通はそう考えるか」 「この傷を見て、よっぽど熱烈な女だったのかと羨ましがられた。実際は狂暴な野獣を犯して負った不名誉な傷だ」 「てめえが俺に薬を飲ませて押し倒さなきゃその不名誉な傷を負うこともなかったし、俺が尻の痛みに呻くこともなかったんだがな」  唇の端を引き攣らせながら、隣の寝台に腰かけて見下ろしてくるアレウスを睨み上げた。  最初はアレウスも拒んでいたのだ。死んだ方がマシだと主張するほど嫌悪感を示していた。しかし、報酬の話を念押しされて承諾したのだ。 「金に困って剣闘士に堕ちたのは知ってたが、まさか借金があるなんてな」  露骨に嘲りを浮かべてやると、冷たい色の目が眇められる。 「十年戦い続けても返せねえ額なのか」 「お前には関係ないだろう」  明らかに急降下した機嫌。普段、見下した態度しか取らない男の気分を害することができたことに、ブラックドッグは悪辣な笑みを深める。 「賭博に興じるようには見ねえが、見かけによらんな」 「俺のことを詮索するな。一度寝ただけの奴に教える義理はない」  ダレントが薬を塗り終えたらしく、アレウスは無言で立ち上がった。 「次の闘技会が終われば俺は奴隷の身分を返上してここを去ることができる。……貴様は巡視隊に囚われて奴隷にされたんだったな。ヴァレンティーナ市民でない奴隷剣闘士に終わりはない。皇帝直々に許しを得ない限りはな」  向けられたのは、優越感のようなものだった。それから、侮蔑、嫌悪、嘲笑。辛辣に吐き捨ててアレウスは傷の真新しい背中を向け、去っていく。ブラックドッグは己が刻んだ爪痕を、苦虫を噛み潰して凝視した。 「嫌な野郎だ……どうしてあれで市民から人気の闘士なのかわからん」 「魅せ方をわかってるんだ、お前よりもな」  ダレントは辟易したように嘆息して、薬を片付け始める。 「今のはまずかったよ、ブラックドッグ」 「ああ? 何がだ」 「あいつの借金は、他の連中と違って賭け事で抱えたもんじゃないんだよ」 「知ってんのか死に損ない」 「仔細は本人に聞きな。確かに十年も頂点で戦い続けて返せねえ額なんてないんだ。本当は、取り立て屋が手数料に半分持って行ってるんだ。そして、奴の代わりに取り立て屋まで届けに走る奴隷が少し間引いてる。誰の指示がわかるかい」  養成所の塀の外に出ることの叶わない剣闘士が、外部と接触を取る場合に頼みとするのは、主人の屋敷に勤める奴隷だった。 「まさかスプリウスか?」 「お前、意外とまともな頭してるじゃねえか」 「ぶっ殺すぞ」 「儂が死んだら誰がお前の尻穴に薬を塗るんだ」 「もう塗るような事態にはならねえよ」  なって溜まるか。あんなのは一度で十分だ。 「お前の見立てはおそらく正解だ。アレウスが借金を返し終わって養成所を去れば困るのは旦那様だ。アレウスは一番の稼ぎ頭だからな。奴がいるから大規模の闘技会に出られて、多額の報酬が得られる。うちの二番手は手のつけられん野獣だしな。市民出身で聞き分けの良いアレウスがいなくなれば、稼ぎは減るだろうよ」  ダレントは「その汚ねえ尻早くしまいな」と布を放り投げてくる。  アレウスが、自分の報酬を掠め取られていることに気づかない筈がない。汚い手を考える不埒者がいること、スプリウスが損失を避けようとしていることは承知しているだろう。  だとすれば、知った上で声を上げずに黙しているのだ。 「……なんだ、そりゃ」  そんな胸糞の悪い話、あるか。

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