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ユリアトゥス主催の大闘技会が終了して五日後、ブラックドッグはスプリウスから報酬を与えられた。与えられたと言っても、剣闘士は自身の手元で金銭を所有することを許されていない。剣闘士の所持金は興行師の屋敷で奴隷によって管理され、使用する際は都度申告が必要となる。
訓練場を訪れたスプリウスに告げられた報酬額は、これまでに出場した闘技会の一回の試合で得られたものの五倍にも及んだ。
「そんな大金、どうしろってんだよ。貯めたところで俺はここを出られる訳じゃねえ」
鍛練の合間、汗を拭いながら生涯聞いたことのない額に困惑するブラックドッグに、スプリウスは笑って言う。
「町から女でも呼べばどうだ。ここの連中全員に買ってやることができるぞ。それで士気が上がれば私も喜ばしい」
「誰が他の奴らのために使うか。てめえはなおさらだ」
「お前の兄弟たちだぞ、ブラックドッグ。共に厳しい鍛練に励み、命を賭して戦いに臨む仲間だ」
「酒くらいなら振る舞ってやる」
「ならばそのように手配しよう」
満足げに頷いて去ろうとするスプリウスの背中を、ブラックドッグは「待て」と呼び止める。
「あいつの……アレウスの報酬は」
「お前が知ってどうするのだ」
「俺には知る権利があるだろ。一緒に命賭けて戦った“兄弟”なんだからよ」
皮肉を込めて主張すると、スプリウスは足を止めて振り返る。
死闘の後、瀕死のアレウスは医師の懸命な処置によりかろうじて一命を取りとめたが、現在も意識が戻らず生死の淵を彷徨っている。安静の状態で養成所の医者のもと、昏々と眠り続けていた。
「お前の半分だ。十分だろう。ここを出るにはまだ時間はかかるがな」
「半分……セネカにとどめを刺したのはあいつだ」
「だが倒れた。瀕死だ。最後まで立っていたのはお前だけだ」
アレウスがセネカの脳天を貫いていなければ、ブラックドッグは喉を握り潰されて死んでいた。アレウスは腹に穴をあけて臓物を抱えながらも、ブラックドッグを拘束する大男を殺すため最後まで動いた。それはブラックドッグを救うためではなく、勝利への貪欲な意思がもたらしたものだ。今回の闘技会において、勝利への執着はブラックドッグよりも遥かに大きかった筈だ。
そうでなければ、アレウスは武者震いと言って笑う筈がない。試合のために客人の遊戯に付き合う筈がない。
「あの野郎……どうしてそこまで拘ってた」
「何をだ?」
「借金返すためにこんな場所で命張ってるんだろう。あの夜、金の話が出た途端に顔色変えやがった。俺と寝てまでしてセネカとの大試合組んで、そんなに急いで養成所を出たかったのか」
スプリウスは養成所の儲けのため故意にアレウスの返済を滞らせていた。それを今指摘するつもりはない。
アレウスは自身の報酬が間引かれていることを承知の上で主人に従順に従っていた筈だ。それが、ユリアトゥスから借金の残額を報酬として与えると告げられ、食いついた。完済が確約されたのだ。
「あの野郎が、闘技場でセネカと刺し違えてでも勝とうとしてた理由、教えろ」
獲物を狙う眼差しでスプリウスを貫く。手練れの興行師はたじろぎはしなかったが、逡巡の後、億劫そうに口を開いた。
「奴には妹がいる。唯一の肉親だ」
「……妹」
聞き慣れない単語を反芻する。もちろん、初めて聞く情報だった。アレウスについてブラックドッグが知っているのは、食えない男だということくらいだった。
「奴が抱えている借金は、奴の両親が作ったものだ。両親は借金だけを残して疫病で死に、奴と妹はふたり取り残された。アレウスはその借金を返すため、そして同じく病の妹の生活費のため奴隷となって我が養成所へ来た」
「血も涙もないクソ野郎に人間の家族がいたのか」
「そう言ってやるな。奴が急いていたのは、妹の症状が悪化しているからだ」
妨げ養成所に引き留めようとしているのはどいつだ、と口の中で悪態を吐く。養成所の稼ぎのためならば情など用いず手段を選ばないのが興行師だとは知っていても、平然と妹のためと宣うスプリウスに憤りが募ってくる。
「此度の闘技会で完全勝利をおさめ皇帝陛下の好評をいただけば借金を返し終え、妹の治療費も払える筈だったが……最後で倒れたのは、奴の実力はそこまでだったということだ」
「ああ……その通りだ」
ここでスプリウスを糾弾したところで、力を持たない奴隷剣闘士であるブラックドッグには状況を変えられない。かえって揉めれば衛兵が飛んで来て取り押さえられることも承知している。
だから、ブラックドッグに出来るのはひとつ、提案することだけだった。
大闘技会から一月後。瀕死の重傷を負ったアレウスはダレントの継続的な治療もあって回復を遂げ、剣が持てることを確かめた翌日にはスプリウス養成所を去ることになった。
つまり、もう剣闘士ではない。市民として、ヴァレンティーナの町でまっとうな人間の暮らしを送るのである。
死と隣り合わせの生から解放されるアレウスを養成所の兄弟たちは羨ましがり、また称えた。ヴァレンティーナの筆頭剣闘士であった彼が立ち去った後も、いつか得られるであろう自由のために戦うと決意した。
アレウスの出立を翌朝に控えた夜。ブラックドッグは屋敷に勤める衛兵からスプリウスからの呼び立てがあると伝えられ、暗く湿った地下牢を這い出た。
屋敷へ足を踏み入れるのは、先の忌々しい夜以降、二度目だった。
案内された部屋は前回とは異なる場所だったが、広い造りと豪奢な調度品、部屋中に染み込んだ香、開けた露台から見える暗夜に輝く星、吹き込む穏やかな風、すべてがあの夜を思い起こすようで居心地が悪かった。
何よりも、部屋の中央の長卓で、硝子瓶から銀の杯へワインを注いでいる男の存在が、一層立ち去りたいという気持ちを増幅させた。
「てめえも呼ばれたのかよ」
ブラックドッグの存在に気づいた男は、軽く顔を上げて一瞥しただけで、すぐに目線を手元のワインへと戻す。
部屋に主の姿はなく、アレウスだけだった。そのアレウスも普段と様子が違っていた。何せ衣服を身につけている。
ブラックドッグがそうであるように、奴隷剣闘士に許された服は腰と股間を覆う布だけだ。しかし目の前の男は、上質そうな緋色の衣の上から象牙色のウール布を羽織っている。無造作に結い上げていた褪せた金髪は櫛を入れた後のようで、滑らかに肩へ流れている。
身を整えると貴族のような雰囲気である。まるで、今までの剣闘士の姿は誤りで、こちらが本来の姿であるような気さえしてくるほど、洗練された装いは彼の端整な顔立ちを引き立てる。別の人間がいるようで気分は落ち着かない。
「はっ……おかしな格好をしてやがる。まるで市民様だな」
まるで、ではなく、アレウスはもうヴァレンティーナ市民なのだ。奴隷剣闘士ではなくなったのだ。
ブラックドッグの皮肉に、アレウスはそっと静かな視線を寄越した。
「貴様を呼んだのは旦那様じゃない。俺だ」
今宵の夜風のように凪いだ声で、ワインの注がれた杯をブラックドッグに差し出す。ブラックドッグはこれまでと違う様子に露骨に訝りながら、なみなみ注がれた銀の杯を受け取った。
「貴様は本当に、余計なことをしてくれた」
余計なこと、と言う割にはアレウスの語調に尖ったものは感じられなかった。
「何だ、文句を言うために呼びつけたのか」
「……違う。礼を言わねばならない」
自身も杯を持った手で、ブラックドッグの手元を指し示して「飲め」と促してくる。
「旦那様の奴隷に頼んで町で俺が買ったワインだ。貴様から貰った金ではないぞ」
アレウスが杯を傾けるのを見て、ブラックドッグも同様に赤紫色の酒を呷る。
ブラックドッグは、先の大闘技会でユリアトゥスから得た報酬を、一部を残してアレウスに譲渡したのだった。
決してスプリウスから妹の話を聞いて同情心から分け与えたのではない。むしろ同情心からだとすれば、アレウスは不名誉だと憤っただろう。
報酬を譲ったのは、正当な分け前だと思ったからだ。
「てめえには借りを作りたくなかっただけだ。お前がセネカをやらなきゃ俺は首をへし折られて死んでた。その働きの割には不当な報酬の比率だった」
「そうだな。セネカにとどめを刺したのは俺だしな」
「腹が立つことにな。内臓出しながら最後まで足掻きやがって……」
「貴様の膳立てがあったからだ。感謝する」
ブラックドッグは目の前の男を凝視した。聞き違いでなければ、感謝すると言ったか。
「感謝するな、気味が悪ぃ……てめえの借金の事情なんざ知らねえが、いつまでも養成所に残られてぐずぐず文句言われるのも嫌なんだよ」
「……スプリウスから何か聞いたのか」
湖畔色の瞳が貫く。
「……何かって何だ。知りもしねえし興味もねえ」
「そうか。なら、いい」
詮索はなく、アレウスは静かにワインを干した。ブラックドッグも杯を空にし、卓に乱暴に叩きつけた。
「話はそれだけか。俺は薄汚ねえ地下牢に戻るぞ。てめえの着飾った姿を見てるとムカムカしてくるんでな」
どうしてか首の周りがむず痒く、早々にこの居心地の悪い空間から立ち去りたかった。アレウスを目にするのは今夜が最後、彼は明日の明朝に養成所の塀の外へと旅立って行く。市民になる男となどもう関わることもないと言い聞かせれば、釈然としない胸の内はわずかに晴れていく。
「まだ行くな」
「……何でだ」
無愛想に返せば、アレウスは空になったふたつの杯に再びワインを注ぐ。とぷ、とぷ、小気味良い音が、夜風の吹き込む静寂の空間に広がる。
「旦那様は俺に、今まで養成所を潤してくれた礼と、そして詫びとして、最後にひとつ、何でも願いを叶えてやると仰った」
「詫び……。俺に関係あるのか」
「お前を……自由にしてくれと頼んだ」
再び満たされた杯を目の前に差し出される。ワインの水面が穏やかに揺れている。
冗談を言っているようには見えない、眼前の男の真摯な表情を、ブラックドッグは闇夜の色で凝視した。
「だが、却下された。他は何でもいいが、それだけは駄目だと」
「――そうか」
「俺の代わりに養成所の稼ぎを支えるのはお前だと」
無意識に詰めていた息を吐き出し、差し出されたままの杯を受け取った。
自由など、愚かな願いだ。ヤーラが襲われ奴隷となった日から、理解していた。養成所の塀の外へ出ることは一生ないのだと知っていた。
お前には帰る場所はない。冷たく告げられた時、理解していたからこそ何よりも残酷な言葉として胸に刺さった。
その言葉を吐いた男が、ブラックドッグの自由を願った。
「……てめえ以上に稼いでやる」
憤怒、憎悪、当惑、歓喜。すべての感情が、身体の内側に渦巻いている。溢れ出そうな感情に蓋をして、ワインを煽って飲み込んだ。
「それで、代わりの願いはどうした」
「去る前に最後、もう一度ブラックドッグを抱かせて欲しいと頼んだ」
「……は? …が、っ……ごほ、…ッ……、は?」
ワインが気管に入って盛大に咳き込んだ。唖然として目の前の男を見つめる。
「正気か? 酒を飲んで酔ってるのか?」
「正気だ。旦那様と話した時は酔っていない」
「俺の身体に味を占めたか?」
「味を占める……確かに相性は良かったかもしれんな。貴様もそう思っただろう」
「薬が入ってたからじゃねえのか」
ダレントの医務室で目にした、アレウスの白い背中に刻まれた赤い爪痕が脳裏に浮かび、咄嗟に掻き消した。
「そのために俺を呼んだのか」
「出立は明日だ。今夜しかない」
「良いって言うとでも思ったのか」
野獣と寝るくらいならば舌を噛み切って自死を選ぶとまで言い、行為中も不本意を露にしていたのに、この変わり身は理解が追いつかない。
それ以上に理解できないのは、あの夜まぐわえと告げられた時に感じたようなおぞましさが、自身の中に生まれないことだった。
「……話した時、スプリウスは何て言ったんだ」
「好きにしろと仰った」
ブラックドッグは盛大に舌を打った。短い黒髪を掻き回す。
「てめえと違って俺の身体は俺のものじゃねえ、奴隷剣闘士は興行師の所有物だ。スプリウスが……旦那様が、好きにしろって言ったのなら、そうしろ、クソ市民」
精一杯の虚勢で素っ気なく言い放ち、残りのワインを一気に干す。
ブラックドッグの言い分に、アレウスは薄い色の目を緩ませた。
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