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苦杯10
正直、母さんがいた頃は父親の姿など見たこともない。
生まれた時から俺には母さんしかいなかった。
しかし親というのは普通、母親の他に父親というのがいるらしい。
幼い俺は、母さんに尋ねていた。
俺は“父親”という存在すら知らなかったから、ただ不思議で仕方なかったのだ。
母さんは初め、自分たち家族にはお父さんはいないのだと答えた。
その意味が分からなくて、俺は何度も質問した。
今思えば、父親がいないという事実を認めたくなかったのだろう。
日々の日常が他と違うことには気づいていた。
だからこれ以上、普通であることから遠ざかりたくなかったのだ。
俺はいつもボロボロだった。
とにかく金がなくて、母さんが必死で稼いでも足りなくて。
場所も場所で、とても治安の悪い所だった。
よく通りすがる男や女に捕まっては襲われた。
たばこを押し付けられ、リンチされ、強姦され…。
幼いながらに、世の中の汚いことをこれでもかというくらい見せつけられた。
「なんで…。なんでおれたちにはお父さんがいないの…?」
最終的には泣いて縋り付く俺を抱きしめて、母さんは掠れた声で言った。
「私たちのお父さんにはね…。別で、本当の家族がいるの」
後々知ったことがある。
母さんは父親がいないことを悲しんでいた俺にそう答えた。
だが実際それは、彼女の本心ではなかったのだ。
母さんはアイツを父親だとは思っていなかった。
アイツへの愛情などまるでなかったのだ。
当然だ。
あの母さんの人となりで、アイツを愛せたわけがない。
要は無理やりの性行為。
愛人などとも呼べぬような関係。
しかし彼女は、アイツの血を引く俺であっても愛してくれた。
まだ幼かったにも関わらず、母さんとの記憶は鮮明に覚えている。
己の子には変わりないと、たくさんの愛情を注いでくれた。
母だけがずっと、俺を守ってくれた。
そんな母さんが名付けてくれた名前を、俺は何よりの形見として大切に思っている。
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