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愛しい人4
家に帰ると、明かりがついているのが見えた。
今日は早く返って来れたんだと、ホッとすると共に緊張してくる。
ドアを開ければ、美味しそうな香りがした。
いつもは作り置きを用意してくれていて、それを温めて食べる。
文句なんてこれっぽっちもないけれど、やっぱり母さんがいる中での晩ご飯は嬉しかった。
「ただいまっ」
「おかえり。もうすぐでご飯できるから、手洗っときなね」
「うん」
優しく笑いかけられる。
母さんはいつも笑顔だ。
どれだけ仕事が大変でも、おれのためにご飯を作ってくれて、今日の学校は楽しかったかと聞いてくれる。
おれは何かを伝えるのが下手くそだから、いつも上手く説明できないけれど
母さんは「うんうん」と何度も相槌をうってくれて、微笑んでくれるんだ。
だからおれも、道で見かけたネコの話や、給食のおいしかったメニューの話、それに悠斗さんの話なんかをがんばって話す。
でも今日のことはちゃんと言えるだろうか。
空手を習いたいって。
お願い、できるだろうか。
「か、母さんっ」
「ん?どうしたの?」
緊張した声で呼びかけると、エプロン姿の母さんがこちらを振り向く。
おれはバクバクいう心臓の音を聞きながら、思い切って口を開いた。
伝え終わると、母さんがコンロの火を消す。
そしてこちらへ歩いてきた母さんは、
おれを、ギュッと抱きしめた。
「か、母さん…っ?」
「……嬉しいなぁ」
「え?」
訳が分からず固まっていると、体を離した母さんが、おれを見て本当に嬉しそうに笑う。
「千里から、何かをお願いされる日がくるなんて。すっごく嬉しい」
目を見開くおれの頭を撫でて、母さんは言う。
「遠慮なんてしないで、好きなことをやりなさい」
「っ、でも…」
「大丈夫。習い事の1つや2つ、どーってことありません!」
こんなに嬉しそうな母さんは久しぶりに見た。
もしかしたら、初めてかもしれない。
「…ありがとう」
ありがとう、母さん。
ありがとう、悠斗さん。
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