63 / 108

愛しい人4

家に帰ると、明かりがついているのが見えた。 今日は早く返って来れたんだと、ホッとすると共に緊張してくる。 ドアを開ければ、美味しそうな香りがした。 いつもは作り置きを用意してくれていて、それを温めて食べる。 文句なんてこれっぽっちもないけれど、やっぱり母さんがいる中での晩ご飯は嬉しかった。 「ただいまっ」 「おかえり。もうすぐでご飯できるから、手洗っときなね」 「うん」 優しく笑いかけられる。 母さんはいつも笑顔だ。 どれだけ仕事が大変でも、おれのためにご飯を作ってくれて、今日の学校は楽しかったかと聞いてくれる。 おれは何かを伝えるのが下手くそだから、いつも上手く説明できないけれど 母さんは「うんうん」と何度も相槌をうってくれて、微笑んでくれるんだ。 だからおれも、道で見かけたネコの話や、給食のおいしかったメニューの話、それに悠斗さんの話なんかをがんばって話す。 でも今日のことはちゃんと言えるだろうか。 空手を習いたいって。 お願い、できるだろうか。 「か、母さんっ」 「ん?どうしたの?」 緊張した声で呼びかけると、エプロン姿の母さんがこちらを振り向く。 おれはバクバクいう心臓の音を聞きながら、思い切って口を開いた。 伝え終わると、母さんがコンロの火を消す。 そしてこちらへ歩いてきた母さんは、 おれを、ギュッと抱きしめた。 「か、母さん…っ?」 「……嬉しいなぁ」 「え?」 訳が分からず固まっていると、体を離した母さんが、おれを見て本当に嬉しそうに笑う。 「千里から、何かをお願いされる日がくるなんて。すっごく嬉しい」 目を見開くおれの頭を撫でて、母さんは言う。 「遠慮なんてしないで、好きなことをやりなさい」 「っ、でも…」 「大丈夫。習い事の1つや2つ、どーってことありません!」 こんなに嬉しそうな母さんは久しぶりに見た。 もしかしたら、初めてかもしれない。 「…ありがとう」 ありがとう、母さん。 ありがとう、悠斗さん。

ともだちにシェアしよう!