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踏み出す8

眼鏡を鞄の中に忘れてきたのを思い出して、ふらふらしながら歩いて行くと、慣れない部屋のせいで躓いてしまった。 「わわっ」 「おっ、と」 「!」 こける前にあたたかいものに包まれる。 幸さんに抱き留められたのだと気づき、慌てて謝罪しようと顔を上げると、頬をうりうりと両手で揉まれた。 「眼鏡か?必要なら、俺に頼めばいいだろ」 「ぁ、あぃ…」 「相変わらず千里は頼むのが下手だな」 そう言って幸さんは笑うと、「髪、ドライヤーで乾かしてやる」と行って洗面所に行ってしまった。 それからソファーに座るように言われて、髪を乾かしてもらう。 おれはどうすればいいのか分からなくて、縮こまりジッとしていた。 幸さんの手が髪に触れるたび心が落ち着かなくなる。 この感覚は、懐かしいと感じた。 多分、昔、悠斗さんが同じことをしてくれた時を思い出したんだ。 おれの家に泊まりにきてくれたことがあって その時は母さんも喜んでくれて 食べ切れないくらいの唐揚げを、悠斗さんともりもり食べた。 ベッドに2人で入って、ぎゅうぎゅうになりながら身を寄せ合って… 好きだなぁと、心から感じて… 「…千里。泣いてる、のか?」 「……ぇ?」 顔を上げれば、幸さんがいた。 その手でおれの頬に触れて、目尻を拭われる。 それでおれの目からポロポロ涙が出ていることに気づいた。 不思議だな。 今までは、どんな辛くても涙は出なかったのに。 ただただ苦しくて、胸が張り裂けそうな痛みを覚えるだけだったのに。 だけど今、悠斗さんのことを考えると、自然に涙が溢れてくる。 それはとても悲しいことだけど、 でも、なんだかとても嬉しい。 彼のことで涙を流せることが、こんなにも嬉しいだなんて。

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