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四、宵闇に染まる①
出航は夜だった。
どさくさに紛れてゼスカから奪い取った印刷文書を握り潰す。
もっとマシな別れ方もあっただろうに。
まだ時間はある。
戻れば間に合う。
もう一度、彼に会える。
(会って、なにをしろというんだ)
呆れてるよ。
身勝手に叫んで。
自分勝手な気持ちをぶつけて。
(ゼスカと先生は別人だ)
俺が勝手に重ね合わせていただけの事。
彼は悪くない。
ごめん……
と、あの時。
ただ一言言えれば良かった。
現実は戻らない。
海が鳴いている。
潮が満ちてきた。
新月の海で、波が寄せて返し、返して寄せる。
音だけが鼓膜をうがつ。
海鳴りが聞こえる。
「俺………」
もう引き返せない。
「俺………」
波の音が一滴一滴、心臓を突き刺す。
「先生ッ」
応えたのは宵の空に腕を伸ばした、白とも黒ともつかない色の海鳴りだった。
「………………こわいよ、先生」
生きている事を実感した体は、英霊となって靖国に帰る事を恐れる。
生きているのが分かった瞬間、死ねなかった事を後悔したのに。
生きているから、死ぬのが怖い。
死という現実に直面して、死にたくないと請い願う。
誰も助けてくれない現実に絶望しても、まだ生きる事を諦められない。
死にたくない。
人は身勝手だ。
波の向こう、同胞達が呼んでいる。
炎に巻かれて、轟音と化して、海に散った同胞の声が寄せては返し、叫んでいる。
海鳴りが呼ぶ。
手招きして、波が呼ぶ。
波が悶えて打ち返す。
(いかなくちゃ……)
俺はいかなくちゃ……
あの場所へ
波の向こうのあの場所へ
海鳴りの聞こえる場所へ
「止まりなさい!」
声が聞こえた。
波の音でない声が、心臓に響いた。
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