11 / 40

四、宵闇に染まる①

出航は夜だった。 どさくさに紛れてゼスカから奪い取った印刷文書を握り潰す。 もっとマシな別れ方もあっただろうに。 まだ時間はある。 戻れば間に合う。 もう一度、彼に会える。 (会って、なにをしろというんだ) 呆れてるよ。 身勝手に叫んで。 自分勝手な気持ちをぶつけて。 (ゼスカと先生は別人だ) 俺が勝手に重ね合わせていただけの事。 彼は悪くない。 ごめん…… と、あの時。 ただ一言言えれば良かった。 現実は戻らない。 海が鳴いている。 潮が満ちてきた。 新月の海で、波が寄せて返し、返して寄せる。 音だけが鼓膜をうがつ。 海鳴りが聞こえる。 「俺………」 もう引き返せない。 「俺………」 波の音が一滴一滴、心臓を突き刺す。 「先生ッ」 応えたのは宵の空に腕を伸ばした、白とも黒ともつかない色の海鳴りだった。 「………………こわいよ、先生」 生きている事を実感した体は、英霊となって靖国に帰る事を恐れる。 生きているのが分かった瞬間、死ねなかった事を後悔したのに。 生きているから、死ぬのが怖い。 死という現実に直面して、死にたくないと請い願う。 誰も助けてくれない現実に絶望しても、まだ生きる事を諦められない。 死にたくない。 人は身勝手だ。 波の向こう、同胞達が呼んでいる。 炎に巻かれて、轟音と化して、海に散った同胞の声が寄せては返し、叫んでいる。 海鳴りが呼ぶ。 手招きして、波が呼ぶ。 波が悶えて打ち返す。 (いかなくちゃ……) 俺はいかなくちゃ…… あの場所へ 波の向こうのあの場所へ 海鳴りの聞こえる場所へ 「止まりなさい!」 声が聞こえた。 波の音でない声が、心臓に響いた。 あなたは誰だ?

ともだちにシェアしよう!