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若紫
「おはよう、あじ。今日は帰ってきたらお前に報告したいことがあるからちゃんと待っててよ?じゃあ、行ってきます!」
--陽向さん、おはようございます。私は何処にも行きませんよ。今日も貴方の帰りを此処で待っています。気を付けて行ってらっしゃい。
昨日の疲れはどうやら取れたようで、パリッとスーツを着こなした陽向さんが張り切った様子で出勤して行った。
私は何処にも動いたりしないのに「待ってて」などという陽向さんが可愛くて仕方がない。
私が陽向さんと出会ったのは多分4年前の6月頃。
いや、もっと前から彼は私と会っていたのだろうが、私が彼を認識したのはその時が初めてだ。
紫陽花の花が咲き始めるのと時を同じくして私の意識も唐突に芽吹いた。
意識が浮上した瞬間から私はこの世の理を知っていた。
自分が何ものなのか、そして本来は意識を持たざる存在であることも理解していた。
しかし、何故私に人間と同じような思考能力が備わったのか、それだけが謎だった。
私は直ぐに今置かれている状況の把握に努めた。
目の前には大きな箱があり、その一面には8つの扉というものがついていた。
その情報から私にはそれが人間の住むアパートというものであることが分かった。
次に意識を自分の両脇にやると、そこには私の同族が1株ずつ並んでいた。
辺りを確認しているとアパートの扉の1つが不意に開いた。
私から1番近い1階の右端の扉で、中から出てきた人間は扉の鍵を閉めると直ぐ様私の元へと駆け寄ってきた。
「あじ、おはよう。お前は俺に挨拶してくれないのか?」
20代前半だろう若者はじっと私を見つめながら話しかけてくる。
「あじ」とは私のことだろうか。
それよりも気になるのは、両隣の紫陽花の花びらが大きく揺れていること。
そよ風が吹いてはいるものの花びらが揺れるほどの風ではないはずだが...。
そう思いながらもそよ風の力をかりて自分も左右に動くイメージを描いてみると、彼らと同じようにユラユラ揺れることが出来た。
「わっ!お前も挨拶してくれた!今日は良いことあるかも。じゃあ、いってきます」
私が揺れた途端満面の笑顔を浮かべた彼。
その瞬間から私の頭の中は紫陽花に話しかける奇妙な彼のことで一杯になった。
それからの日々はただ毎日朝と晩に会いにくる彼を眺めて過ごした。
「行ってらっしゃい」と「お休みなさい」の時は手を振る感覚で隣の紫陽花に習い身体を揺らした。
隣の紫陽花たちはきっと私と同じように意識があるのだろう。
ただ、私達は少し身体を揺らせるだけでそれ以外に出来ることもなく、彼らに意識があったとしてもコミュニケーションを取る術がなかった。
そうこうして1ヶ月と少しが経った頃、私の意識は唐突に消えた。
意識が消えたのだと悟ったのは次の年、また6月頃に目覚めた時のことではあるけれども。
どうやら私は花を付けている間だけ意識が宿るようである。
今年も彼はあの扉から出てきて私に話しかけてくれるだろうか。
「おはよう、あじ。あっ!お前今年咲くの遅かったな。待ってたよ」
...今年も彼は同じ場所にいた。
そして同じように私に話しかけてくれる。
--おはようございます。私も貴方にお会い出来るのを待っておりまた。
この年から私も彼に心の中で呼びかるようになった。
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