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第2話
2月17日金曜日の夜は、夕方頃に降った雪が東京の街をうっすらと覆っていた。この冬は幾度となく寒波が訪れ、例年以上に降雪があり、交通機関がマヒする度に、都民や周辺の県の住民はうんざりとしていた。
圭一郎は7時過ぎに都庁を退勤し、メトロに乗って新宿三丁目駅まで向かった。
駅近のラーメン屋で腹ごしらえをしたのち、二丁目へと足を運ぶ。週末ということもあって、どこの店にもそれなりに客が入っているようだった。道路の雪は人の往来によりほとんど溶けて水になっており、このまま夜が更け気温が下がれば、路面が凍結しかねない。革靴でその上を歩くのが怖いので、今夜は1軒、2軒ほど馴染みのバーに寄って、早々に帰ることにした。
御苑大通りのはずれにある《ビヨンド》は、圭一郎が社会人になってから知った店のひとつだった。
ゲイの店主がひとりで営む小さなバーで、カウンター席が7つしかないが、この時間なので埋まってはいないだろうと思い、店のドアを開けた。カランカランとベルが鳴ると同時に、店主の穏やかな声が聞こえた。
「いらっしゃい……あぁ、圭一郎か」
「うそ?」
店主の声とは別に、素っ頓狂な声が圭一郎の耳に入ってくる。聞き覚えのあるハスキーボイスだった。店主の顔を見るよりも先に、カウンター席に視線をやれば、手前で2人組の見知らぬ男性客が楽しげに談笑しており、一番奥の席にちょっとした知人が座っていた。
川嶋 幸央は、圭一郎と同じく仕事帰りにこの店に寄ったのか、黒のスーツ姿で煙草を燻らせていた。その傍らにあるのは、淡い琥珀色で満ちるハイボールグラス。彼の一番好きな酒だった。
「……本当だ。圭一郎……」
「あぁ、久しぶり。隆仁さんもご無沙汰です」
圭一郎は幸央と店主の隆仁に挨拶し、店の奥へと進んだ。「となり、いいか?」と幸央に訊ねれば、彼は一瞬、顔を強ばらせたものの、「いいよ」と言ってくれた。コートとマフラーを後ろの壁にぶら下がっているハンガーにかけ、彼のとなりに座ってビールを注文した。
幸央は、昔の恋人だ。4年ほど前に別れたが、圭一郎は最近までずっと、彼への想いを引きずっていた。
半年、いやそれ以上ぶりの再会だろうか。
あの頃に比べ、幸央の顔は少しふっくらと丸くなり、髪も少し伸びている。目の下の青黒いクマは、薄くなっていた。今夜の都内の雪化粧のように、日頃の疲れがうっすらと積もったその顔は、取り分けて美形というわけではないが整っており、相変わらず隠微な色気と翳りを薫らせ、圭一郎を見つめた。
「……仕事が早く終わったのか?」
そう訊ねれば、幸央は吸い終えた煙草を灰皿に擦りつけながら、微かに笑ってうなずいた。
「今日は上の人たちが皆いなかったんだよ、研修だか、講演会だか何だかで。だから、定時であがって久しぶりにここに来た」
「アイツが家で待ってるんじゃないのか?」
「社員旅行で沖縄に行ってんだよ、羨ましいことに」
「年度末が近いのに社員旅行? 民間企業はそんな感じなのか……」
「社長さんがこの極寒に耐えきれなくて、社員を引き連れての逃避行らしい」
「それは、いい会社だな」
「だろ? 俺もそう思う」
隆仁が注ぎたての生ビールとピーナッツを圭一郎の手元に置いた。彼は他のバーの店員のように、客の会話に無闇に入り込んではこない。黙々と酒や料理を作り、洗い物をし、丹念にグラスを磨きながら、時折話しかけてくる程度だ。圭一郎や幸央は、物静かな彼とゆったりとした店の雰囲気が気に入り、二丁目に来れば、必ずと言っていいほどここに寄っていた。
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