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第9話

「あの硬派で一途な宮田さんがねぇ……」 梨々子は独りごちると、彼氏が作ったビューティー・スポットをひと口飲み、紅茶の香りがする煙草を咥える。「大失恋の末のお遊びは、まぁ気休めにはなるけど、ねぇ?」 「お陰で幸央とのことは吹っ切れた。これでいいんだ」 圭一郎は抑揚なく言い、ビールグラスを口元に傾けた。滑らかな泡が舌に乗り、ついでコクとキレのある苦味が喉を通っていく。最近、アルコールを摂取する日が増えたので、摂生しなければいけないと思いながらも、今夜も結局、酒を呷っていた。……春の健康診断が今から怖かった。 「でもそのリョウって子、真性のビッチというか、セックス依存症なんじゃない?」 「心を病んでいるとか、執着心があるようにはまったく見えない。本人は楽しいことと気持ちいいことがとにかく大好きらしい」 「ふぅん……まぁそんなこと言ってられるのも若いうちだけだし、好きにすればって感じだけど」 「梨々ちゃんが言うと、言葉の重みが違うな」 圭一郎と梨々子の会話を、グラスを磨きながら静かに聞いていた隆仁がくすっと笑う。強面で頑強な体躯だが、中身は凪いだ海を思わせる穏やかな人だ。それこそ若い頃、散々遊び、無茶をしていたという梨々子が、終の住処ならぬ終の恋人に彼を選んだのがよく分かる。安定感があり、安心感を抱かせるのだ。 「……でもその子、平日の昼間っから複数の男と遊び呆けてたりするんだよな?」 隆仁の問いにうなずく。 「バイトのシフトみたいに、何曜日の何時からはこの男と会って、この日は夜にあの男と……みたいなのを繰り返してるみたいだ」 「それで色んな男を切って、切られて、また別の男と出会って埋め合わせて……ってしてるの? 平安時代の男性貴族よりも逢瀬相手が多いんじゃない?」 「ははは、梨々子、おもしろいこと言うな」 梨々子の喩えに隆仁が声を出して笑った。その姿を見て、梨々子も幸せそうに笑う。ハートが飛び交っているかのような光景に、ひょっとして自分は邪魔者なのではないかと今更ながら思えてきて、圭一郎は居心地が悪くなる。この話題が途切れて、ビールを飲み終えたら、お暇させてもらおうと思った。 「21歳だったら、大学生か? 生活費は親に頼っているとして、それにしても遊び過ぎだと思うんだけど」 「実家とは、ゲイだってバレた時からほぼ絶縁状態らしい」 圭一郎が答えれば、ふたりは「あぁ」と納得したように声を漏らす。「ゲイあるあるね」「そうだな」という会話がなされた。 「じゃあ、収入源はどこにあるのよ?」 「……さぁ」 「さぁって、薄々気づいてるんじゃないの? 美形で若いときたら、身体で稼いでるのよ、きっと」 梨々子の言う通りだと思う。リョウの発言の端々からもそれは感じとっていた。「だが、俺はアイツに金を渡したことも、せびられたこともない」 「圭一郎は遊び相手のひとりで、援助交際相手がいるんじゃないか?」 「年若い綺麗な男の子にしなだれかかられて、鼻を伸ばしながらお小遣い渡してる金持ちがいるんでしょうよ」 「……そうか」 これと言って何も思わなかったし、感じなかった。そんな圭一郎の平かな表情を見て、梨々子は少し怒ったように眉を寄せた。 「宮田さん、本当にいいの?」 「何がだ?」 「そんなろくでもない子と、割りきった関係とは言え付き合い続けてもいいの?」 艶やかさを孕む梨々子の声に、明確な苛立ちが混ざっていた。「元カレに未練がないのなら、真面目に付き合えるような人を探すべきよ。恋愛する気がないのなら、それでもいいわ。でも、その子との関係は終わらせた方がいい。わたしはそう思う」 何も言えなかった。梨々子の迫力に気圧されたのもあるが、カノジョがそこまで自分のことを心配してくれているとは思わず、驚いたのだ。 「……俺も、梨々子の意見に賛成だな」 隆仁も、磨き終えたグラスを背後の棚に片づけながら言った。こちらを向いた彼は、梨々子とは違い柔和な表情だった。 「その子との関係が気楽でいいんだろうけど、いつまでも続けてしまったら、人を好きになるっていう感情をどんどん忘れて、しまいにはなくなってしまうよ。そうしたら、お前は本当に独りぼっちに慣れてしまう。独りで平気な人間なんて、本当に一握りだ。いつか、どこかで反動がきて、苦しむことになる。だから、無理強いはしないけど、一緒にいたいと思える人を見つけて、この先の長い人生を生きてほしい」 重みと説得力のある言葉が、圭一郎の心を深く容赦なく突き刺してきた。突風が吹き抜けるかのように、胸のうちに一瞬、焦燥感が駆けていく。 圭一郎は唇を噛み、目を伏せた。梨々子や隆仁の言うことは正しいと思う。リョウとは会わない方がいいに決まっている。前を向いて生きていくのに、彼が障壁になっているのは分かっていた。彼との関係を理由に燻り続けていられると思っているから、毎週水曜日の彼からの呼び出しに応じ続けているのだ。 「圭一郎には幸せになってもらいたいよ」 隆仁の声は、どこまでも優しい。「わたしも、同じ気持ち」と同調する梨々子も、先ほどの怒気は消え失せ、静かに微笑んでいた。 「……幸せ」 それこそ先週、リョウとも話した。幸せか……《太陽亭》のオムライスを頬ばっているだけでは、ダメなのだろうか。……ダメなのだろうな。 ビールグラスを空にし、圭一郎はチェックを済ませた。隆仁と梨々子に礼を言い、店を出る。寒々しい夜風が吹き荒ぶなか、JR新宿駅まで早足で歩く。 その間ずっと、ふたりに言われたことを反芻していた。

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