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第5話 眠り人と狩人

『皐月、好きだ。……あいしてる。ごめん。あんなひどいことをして、ごめん。だから、目をさましてほしい』  優しく心地よく落とされていく声が、頭の中で鳴り渡る。その柔らかな声は、ふわふわとした綿毛にくるまれ、ぼんやりと蒼の顔が浮かんだ。  蒼はもう、好きな人とはつき合えたかな。  いまでも出会ったころの記憶が瞼のうらによみがえる。  蒼と出会ったときは桐生に夢中だった。  カラダだけの関係を繋ぎとめるようにすがって、ボロボロにだった。  会うとやさしく、それにうまく騙されてやり、なんども抱き合った。  そんな自分へ突きつけられたものは、突然姿をみせた桐生の兄、義孝(よしたか)からの最後通告だった。  だからか、桐生にとって、自分は汚点でしかない。そうとしか思えなかった。  義孝はすぐに弟と別れて欲しい、冷ややかな眼差しで誓約書と金を包んだ封筒をだして言い放った。自分はその紙をびりびりと破って、住んでいた桐生のマンションを逃げるように飛び出した。  しっていた。  それなら、自分で終わらせてやる。  どうせキスもセックスも、すべてウソでしかない。  そのままふらふらと大通りまで足を伸ばし、タクシーを拾い、乗り込んだ。  空港へとつぶやくと、怪訝そうに振り返った運転手をおぼえている。そして、もう一度、空港へお願いしますと丁寧につたえる自分がいた。そのまま、だれも知らない土地へ身をうつした。  我ながら思い切った馬鹿なことをしたなと呆れる。  でも、誰も知らないという気楽な土地とどこでも仕事ができる環境に感謝した。なんとか慣れない土地に落ち着いたとき、蒼にばったりと再会した。それが蒼との二度目の出会いだった。  弘前という友人を通して、一度会ったきりなのに蒼は自分を覚えていた。  数回言葉を交わしたきりなのに、コーヒーを飲んでいた自分に気づくとすぐに蒼は尻尾を振って顔を輝かせて席へ腰かける。会えたことに喜色を浮かべて、はるばる東京から来たかいがあったと何度も口にした。  当時はまだ桐生が好きだった自分は、そのたわいもない話がすこしだけ救いだった。東京から来たばかりで友人もおらず、ただ黙々とPCを睨めては打つという繰り返し。何件か残された桐生からの着信を残し、携帯も解約してしまった。パソコンのメールだけで、誰かと話をするなんてひとつもない日々だった。  夜は夜で身体だけの関係しかない桐生を思い出しては身体が疼いた。どうしてこんなに好きだったのだろうと幾度も考える。  押しあてられた唇、甘噛みされた耳たぶ、なぞるように辿る細長い指、こじ開けるようにはいる舌先が記憶にこびりついていた。  しくしくとみじめに泣く毎日を送る自分に、蒼はせっせと惜しげもなく東京から札幌の小さな喫茶店へ会いにきた。  なにをするわけでもなく、一杯のブレンドコーヒーを飲んで、とりとめない話をしてはすぐに帰っていく。  半年たったときだ。その日は吹雪だった。蒼がフライトを逃してしまった。蒼は急いでホテルを予約しようとしたが、金曜日という事もあり他の出張者でホテルはどこも満室だった。悩んだすえ、恥ずかしながらも、自分の狭いワンルームへ泊まるよう提案してしまう。  そこからだ。  その日を境に蒼と自分の関係がなし崩しに始まった。  何かにつけて連絡しては会いに来る蒼。自分より二つ年上なのにどうしてかかわいいと思ってしまう。それでも桐生の記憶はきれいに消えてくれない。  蒼を元恋人の代わりにするのが怖かった。どこかで心のブレーキをかけて、蒼を好きになれないんじゃないかと胸の底に押し込めてしまう。  あるときその気持ちを伝えてしまうと、蒼は寂しそうな顔をして言った。 『僕を利用していいんだよ?』  横になってぐったりとしている自分の頭を優しく撫でながら、口にしたのを覚えてる。その顔は寂しそうに笑みを浮かべていた。  同じ言葉を桐生へ言ったのを覚えている。俺を利用していいよ。いやなことがあれば、俺を使えばいい。そう言いながらも、いつか映画を観に行ったりできる関係を望んでしまっていた。  それからだ。会うたびに蒼は何度も何度も身体へ痕をつけるように抱くようになった。もちろん甘い声で愛は紡ぐように囁いてくれる。好きだよ、愛してるよ、ずっと一緒にいたい、いつも耳もとで恥ずかしがる自分を笑って眺めていた。  そんな蜜月のような夜を幾度も過ごした。  遠距離を経て、蒼と俺は東京へ戻りすれ違いながらも上手くやっていると思ってた。  これが俺と蒼の三年だ。  自分だけが上手くやってると思い込んでいたのだ。  あの優しい声を自分とは違うひとへ言うんだろうか。  抱き寄せて、耳もとへ愛を語らうんだろうか    ばかばかしい。  桐生の代わりだと思わなくとも、この魅力のない自分に蒼はさめたのかもしれない。  蒼の顔も、言葉も、笑顔も、キスも、逞しい体も、全て覚えているのに。なんとも恋愛は勝手である。罰しようがない。  あの幸せだったときをどこか小さな箱に収めて、永遠に蓋をかぶせて光から隠したい。そんなことを暗闇のなか、ぼんやりとそんな下らない事を考えていた。  また眠気が静かに襲ってくる。きょうもあすもまた寝ていたい。仕事なんてあとだ。担当にはまた連絡すればいい。ぐったりと四肢が鉛のようにずぶずぶと沼へ沈んでいく。それがまた心地よく、まどろみながら深い眠りに瞼をひらくことができなかった。

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