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第6話 消えた記憶
鳴り響く電子音と、しとどなく濡れたまなじりが気持ちわるい。
真っ白で無機質なシミひとつない天井が目前にある。重たげな頭をずらすと点滴がみえて、ぼんやりとした視線を宙に漂わせた。誰もいない部屋。どこかわからない。
ふいにドアがカラカラとひらいて、看護師らしき人物と目があう。身体を起こし、瞼がひらいた自分にびっくりしたようで、慌ててこちらに飛び込んできた。
「倉本さん、目が覚めましたね! いま主治医を呼んできます」
そしてすぐに、あたふたとでていった。またドアが閉まると同時に勢いよくドアがあけられた。
「……起きたか?」
すらりと高い背が見えたかと思うと、桐生だった。細いストライプのスーツに袖を通し、怪訝な顔つきで近寄る。顔を近づけて、目もとをきゅっと指先でなぞってきた。
「……きりゅう?」
眼前にいた人物に驚きを隠せない。きのう、この恋人を捨てて、家を出たはずだ。
「刺されたんだよ。いま捜査してる。犯人はまだ捕まっていない。……どうやら、通り魔らしい」
「……さされた? ……ッ」
その言葉に体を起こしてしまい、ズキズキとした鈍痛が頭と体によみがえった。
「運良く、一命は取り留めたけど、まだ安静が必要だ。寝てろ」
「……あのさ。ここ、病院……?」
きのうあった記憶と一致しない。もたもたと体を起こす自分に桐生は困ったように深いため息を洩らし、頭をなでた。
「わるい。俺がいたのに……。本当に悪かった」
なにが起こったか、わからない。
昨日は、義孝さんに報告書とお金を突きつけられ、荷物をぎゅうぎゅうに押しこんで、桐生から逃げたはず。
「……いや……、え……っと……」
こんな、優しい顔、みたことがない。ぽかんと間抜けに口を開けている自分に桐生は怪訝な視線をおくる
「……倒れた衝撃で頭をつよくうったみたいなんだ。その、大丈夫か?」
ぐるぐるに巻きつけられた包帯とズキズキと痛むこめかみ。それよりも一番驚くのは、冷たかった桐生が優しいこと。
それだけで衝撃的なのに、柔らかに手をにぎり、心配そうな顔をむけてくる。一言も言葉を交わさなかったのに、一体全体どうしてこうも人は変わるのだろう。
「……ゆめ?」
「本当に大丈夫か? ……三日も眠っていたから、心配したんだぞ」
桐生はいつにない真剣な眼差しを注いで、じっとみつめてくるので恥ずかしくて思わず目をふせてしまう。
「……ごめん。あの、俺、ここ、札幌だよ、な……」
「サッポロ?」
あれ? ちがった?
思わず顔を手のひらで隠してしまう。
自分は桐生から姿を消し、札幌に行ったはずだった。だからこんな別人の桐生が目の前にいるのが信じられない。こんなに優しい桐生はありえない。
氷を落としたような沈黙がしんと流れてひろがる。だが、それもすぐに終わった。ドアが開き、若い長身の医者らしき男が入ってきた。男は桐生と視線が合うと、すぐに視線をそらした。
「倉本さん、初めまして。外科医の黒木です。やっと目が覚めてよかった。傷は少し足の方に後遺症が残るかもしれませんが、過労と睡眠不足から三日間眠り続けていたのでびっくりしましたよ。ちょっと診察しますね」
側にいた看護師がベッドの背もたれ部分の角度を上げ、先生に背中を見せように桐生と向かい合った。桐生の額は少し汗ばみ、顔は少し疲れているように見えた。
「痛いところとかありますか?」
「……背中がまだ痛いです」
「倒れるときに打ったせいですね。ちょっと聴診器で心音確認しますよ」
担当医はシャツの下に聴診器をもぐりこませ、心音を確認した。
「……大丈夫ですね。少し傷が深いのであと一週間は入院して下さい。他になにかありますか?」
黒木はにっこりと口の端に笑みを静かに浮かべ、俺は首を横に振った。
「……あの、ここはどこですか?」
「病院ですよ」
「……えっと、どこのですか?」
「どこって、都内ですけど……」
「はあ……」
口を開けたまま言葉が浮かんでこなかった。黒木は笑みを浮かべて去って行った。
残された俺はヤブ医者なんじゃないかと疑念が湧きでて、まったく一致しない記憶に狼狽えた。
「……昨日にしてたか覚えてるか?」
横にずっと立っていた桐生が唐突に口をひらいた。
「……昨日は新しい新居で荷物を整理してて、その前に桐生の家から出てきて…」
「……俺の家?」
桐生は眉を潜め、じっとこちらを見てる。
「……す、住んでただろ……」
「……それから覚えてることはあるか?」
低い声に少し苛立ちを感じた。
「……義孝さんが昨日きて……」
ぴくりと桐生の眉が動き、一瞬で怖い顔へ変わった。
「兄貴が……?」
「……ごめん、俺、桐生から桐生から離れるって義孝さんに言われて……」
一瞬色んな記憶のような画像が頭に浮かんだ。どす黒く沈んだ感情が湧き出そうだった。
「……とりあえず今日はまだ寝てろ」
「いや、でも……」
「兄貴とはもう話がついてる。大丈夫だ」
「だって、俺約束……」
「もう大丈夫だから、身体が痛いんだろう。しばらくまた寝てろ。……また明日くるから……」
明らかに混乱している自分とはちがう。桐生は冷静で、自分だけがなぜ、こんな目に合っているのか全くわからない。溜息を深々とこぼされ、桐生は神妙な面持ちで病室をあとにした。
一人残された自分はただただ、優しい桐生に頭をかしげた。
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