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第7話 桐生の想い人
「記憶喪失ですね。三年分の記憶が一時的、あるいは半永久的に抜け落ちてると思われます。とりあえず様子をみましょう」
にっこりと口もとに笑みを浮かべた。その医者は先ほどの担当医とはちがい、心療内科医、朝倉とかかれた名札をぶら下げていた。中性的な顔立ちをして、おっとりした印象だった。
どうやら担当医の黒木は桐生と顔見知りらしい。ふたりは噛み合わない自分の会話を心配し、心療内科医である朝倉へ取りつぐという余計なことまでしてくれた。
そして入院の手続き、着替え、仕事の調整など家族がいない自分の世話を桐生はすべて切り盛りする。桐生は見舞いだと言いながら、毎日といっていいほど自分の世話を焼きにくる。
その本人から逃げたとおもってたのに、いつの間にか毎日一緒にいる自分が情けなく思う。あれほど怖かった元恋人はとても優しくなり、そばにいてくれる。
正直嬉しいが、不思議に数日前まで好きだった気持ちも、なぜか、なにもなかったように消えてしまう。
もうあの気持ちは戻ってこない、気がする。うん、もどってきてはダメだ。どうしてか、そう思ってしまう。
桐生がケーキを見舞いに持って来たとき、思い切って質問をぶつけた。
「桐生は恋人はいる?」
「いるよ」
桐生は持っていたケーキの手を一瞬止め、すぐに言葉を返した。
……あ。いたんだ。
なんとなくだが予想はついていた。ただもし恋人なんていなければ、それは自分だけにむけられてたんじゃないか。
また自分は恋い焦がれてしまうんじゃないかと自惚れていた己のあまさに固まってしまった。
そう、だよな。そうだ、バカバカしい。
いまは怪我の完治と、リハビリが第一優先だ。腰と足の付け根をニ箇所も切られてしまった代償は大きい。ずるずると引き摺って前へ進んで歩いてしまうくらい麻痺が残ってしまった。
「……そっか、そうだろうなて思ってた。俺はリハビリも頑張らなければいけないし、そんなひまはないから羨ましい」
見栄を貼るわけでもないが笑っていうと、桐生はよめない眼差しを向けて頭を下げた。
「…………悪い」
「あ、謝るなよ! いいよ、そんな断りながら恋人を作る義理なんてないし。そういうもんじゃないだろ、俺は大丈夫だから」
笑って、むしゃむしゃと馬のようにショートケーキの苺を頬張ってしまう。酸味が舌を刺激して、味なんてわからない。
「…………やり直すか?」
桐生がぼそりと呟いた。
が、飛び出した言葉のせいで咀嚼した苺を丸呑みしそうになった。
空耳か?
「は?」
「やり直すか? 俺は、別れてもいい……」
「馬鹿。なんてこと話すんだ! やめてくれよ。桐生、それはだめだ。俺たちは付き合ってもなかったんだから、やり直す必要もない。記憶がなくとも仕事もあるし、恋人だって元々いなかったんだから、そこまで同情しなくていい。……命あるだけ幸せだし、ほんとバカバカしい」
言葉を並びたてて、それから黙々と口に運んでぺろりとケーキを平らげた。
桐生は府に落ちない顔をしていたが、簡単に別れるなどそんな言葉を聞きたくない。
残したケーキを冷蔵庫にしまい、桐生は置いていた鞄を手にした。
「じゃあ、俺はまた仕事に戻る」
「うん、ありがとう。ごちそうさま。ケーキ美味しかった。じゃあな」
「……水ないけど、買ってくるか?」
確かにミネラルウォーターがない。ないが、この気まずい空気を吸うのは勘弁したい。
「自分でいくよ。ほら、さっさと仕事行きなよ。俺も下までついていくから」
脇に寄せた松葉杖を掴み、鈍い足を床に下ろした。すると、凛々しい眉毛が柔らかく戻るのが見えて口もとが緩んでしまった。
「……クッ」
あれだけ無表情だと思ったのに、いまじゃコロコロと変わってる。少し笑える。普段はなにを考えているのか読めなかいくせに、少しわかってしまうのがおかしかった。
「……なんだ?」
むすっと不機嫌になる桐生が低い声で呟く。
「いや、表情がよく変わるなって……」
「……うるさい。おまえを心配してるんだよ」
コツコツと松葉杖をつき、重い足を引きずりながら前へ歩を運ぶ。
重傷患者のようだったけど、そんなことないな。このまま回復できたら、ひとりでもやっていける。
「うん、ありがとう。あのさ、桐生……」
「なんだ? まだ痛むのか?」
「いや、大丈夫。あの、入院の手続きとかすごい助かってる。だけど、俺はもういいから、来るなよ。恋人がいるんだし、なんだか申し訳ない気持ちになる」
「……大丈夫だよ。ちゃんと事情を話してる」
桐生は首を振ることも振り返ることもなく、そう返した。
え? 事情?
どうゆうことだ……?
いや、どんな理由があろうとも、これ以上、桐生と距離を近づけたくない。
「ダメだ、本当に、もう大丈夫だから、……あっ!」
「おい! あぶなっ」
ドンとすれ違い様に、目の前が鼠色にぶつかった。急にバランスを崩して倒れそうになった。
バサバサと書類が落ちる音が響き、松葉杖がガツンと落ちた。
「いててて……」
「大丈夫か?」
気づいたら桐生の腕のなかにいた。
ぶつかったのは背の高い医者だった。担当医の黒木だと思ったが、医者にしては珍しいハーフのモデルのような美形。一瞬、海外ドラマでよく見る病院なのかと思うぐらいだ。彫りの深い端正な顔立ちで、こちらに驚いたような視線を送っている。
「あ、うん。ありがとう」
「……あの」
体勢をもどしながらも、相手の名札をみると『菫 蒼』とかかれていた。
日本名だ。
じっと不躾な視線を送ってしまったのが悪かったのだろうか、はっとして目線を外して俺はうつむいた。
「……す、すみません」
「いや、いいんだ。こちらこそ、申し訳ない」
「し、書類取りますね……」
床に散乱した書類を拾おうと手を伸ばした瞬間、激痛が走り抜いて声にならない声が漏れた。
「……ッ……!」
「おい! 大丈夫か? 俺が拾うからおまえはやめろ!」
「あ、ああ、……大丈夫、大丈夫。うん、桐生、拾って」
「たく、目が離せないな」
笑って桐生に答えて、そばで立ち尽くす。ぶつぶつとこぼす桐生を眺めながら、菫という医者とまた目が合ったがすぐに逸らされた。
瞳、ライトグリーンだな。きれいだ。
桐生は拾った書類を集め終わると、菫という医者に渡した。
「すみませんでした。こちらをどうぞ」
「あ、ああ、うん。ありがとうございます」
「……あなた、菫というんですね」
「きみは桐生という名前なんだね、珍しい名だ」
桐生ものすごい形相で睨んでいた。が、その医者はにっこりと笑って返す。
「すみません、僕の不注意でした。書類をわざわざ拾ってくださってありがとうございます。怪我はないですか?」
ちらりと松葉杖の俺をみた。外見とは裏腹に、流暢な日本語。
既視感か? なんか、どこかで……。
「こちらこそ、大事な書類を申し訳ありませんでした。ほら、もう行くぞ」
桐生はぐいぐいと背中を押し、その医者を睨めつけると、どんどんと前へすすんでいく。
「……おい、桐生、態度悪い……」
「元々こういう顔だ。仕事があるんだ。ほら、いいから行くぞ」
俺は売店で水を買うだけなのに……。
なんでそんなに急ぐんだよ。
「あ、あのすみませんでした。じゃあ、わ! きりゅ……」
菫に軽く会釈し、桐生を宥めながらその場を去った。
去り際、振り返るとその医者はじっとこちらを見つめてしまう。
桐生の知り合いなのだろうか、どうしてもあの薄いライトグリーンの瞳がやけに印象深く残った。
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