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第8話 失った恋人

 二週間ぶりの再会だった。  普段通りに書類を持って歩くと、誰かにぶつかった。それが、元恋人で、他人のように接するそのひとに見張ってしまった。  頭には包帯をぐるぐると巻き、松葉杖をついて足を引きずっている。歩いている後ろ姿が痛々しい。それは、まだ目に焼きつく。  桐生がいなければ、すぐに皐月だと分からなかった。  ぶつかった拍子に落ちた書類をもくもくと拾った。  たまにちらりと視線を送ったが、皐月は無視した。そして、他人のように振る舞っていた。  どうして? いや、もう別れたからか?  桐生に書類を押しつけられ、去っていく彼をしばらくみていた。一瞬、こちらを振り返り、頭を下げた。そして、こにこと横にいる桐生に笑いかけて前を歩いた。 「……先生?」  残された自分に、側にいた看護師が心配そうに声をかけた。はっとしてバラバラだった書類を整え、顔をむけた。 「……ごめん、松葉杖のひとはうちの患者さん?」 「ああ、そうです。通り魔に遭ったそうです。親戚もいないので、大変だったそうですよ。あの、お知り合いですか?」  通り魔。その言葉にぎょっとしてしまう。 「ちょっとね……。主治医はだれ?」  看護師はそのまま主治医の名前をつげてくれた。端末で呼び出されたのか、バタバタとその場を去った。主治医は後輩の黒木だった。医局へ戻り、電子カルテで皐月の状態を急いで調べた。一週間前の深夜未明に背中を刺され、腰と足の神経部分を切ったようだ。足に麻痺が残って、完治は困難。犯人は不明。  倒れた拍子に頭を強く打っている。まさか自分が勤務する病院に運び込まれ、しばらく昏睡状態だったのにもかかわらず、なにも知らなかったことにショックを受けてしまう。  落ち着け、自分。  別れようと伝えたのは自分だ。  その日も長丁場の手術でいつ帰宅するのか分からなかった。いや、そんなものは言い訳で本当は会って、顔を見て伝える自信がどこにもなかった。  立て続けに予定される会議、学会、打ち合わせ、手術で疲労していた。  皐月とは一緒に住んでおり帰宅すればいたが、ここ最近はすれ違いだった。それでも良好な関係だったが、不安でいっぱいだった。  桐生とちゃんとした別れを言わずにいた皐月に対して、なし崩しに関係を迫った負い目がいつまでもある。  桐生は弟の犯罪心理を専攻としている紅葉を通して知っていた。横浜の旧家にもよく顔を出しては紅葉へ仕事を依頼している。背が高く、がっしりとした身体つきだが愛想はなくいつも無愛想に挨拶を交わすぐらいだった。  皐月が札幌にいた時ですら、何食わぬ顔で紅葉に書類を渡しにやってきたのを何度も見た。  東京へ戻ると、更に疑念は増す一方で、もしかして会ってるんじゃないかと時々不安になっていたがその気持ちとは裏腹に絶対に皐月を手離すつもりも、別れるつもりもなかった。  だが時折みせる憐憫に似た表情と、過去の傷から学んだ聞き分けの良さを見るとどうしても心が押し潰れそうになる時があった。傷ついた過去を癒すように傍にいたが、たまに遠くを見つめる顔は桐生を見ているようで、自分の中に桐生という影を探しているような錯覚を感じた。  勿論、その錯覚を消すように何度も強く抱いた。押し殺すように漏れ出る小さな喘ぎ声や、顔を隠そうと腕の中で震えながら逃げる皐月をみると、更に嫉妬は増した。どうしても皐月の傍にいると桐生の影がチラついてしまい、見えない嫉妬は膨らむ一方だった。蒼としては皐月が別れたと言っても、向こうとはまだ繋がっているようなそんな気分がした。  そしてついに別れるつもりもないのに、結局なんの変化もなく繰り返される日常と沸き上がる嫉妬に負けて、皐月を手離した。  ほんの出来心だった気がする。  いつものように電話をかけて、今日の夕食を話そうとしただけなのに、ついその出来心でその日別れを切り出した。  素直に聞き入れる皐月にも腹が立って、嫌味もいった。意地の張り合いのようにそのまま電話を切り、あとで謝ろうと思った。だがマンションに戻ると同時に皐月は荷物とともにいなくなっていた。向こうもかなり頭にきたようだった。  僕も桐生と同じように捨てられたのか…と愕然としたが、簡単に切り捨てる皐月をみて結局積み重ねた三年は呆気ないものだと感じた。  今更前の恋人を持ち出すのも恥ずかしかったし、好きな人がいると不意に嘘をついたのが悪かったのか、ちゃんと向き合って話をすればよかったのか、それともこのまま何の変化もないまま誤解を生んだままがよいよか、数日後悔と反省を多忙の中、反芻しては答えを導きだせないままでいた。  それがまさかこんな状況になっているとは。  確かに厄介な患者を当直で担当したと黒木がぼやいていたが……。  あまりにも衝撃的すぎて、冷静な蒼も気が昂り机を強く叩いてしまった。衝撃でまとめた書類と論文が散らばった。 「わっ!…菫先生どうしたんですか!?」  横から後輩の黒木が驚いた声をだした。 「……ごめん。ちょっとね。そういえば朝倉くんは黒木の同期だよね?」  最近この病院に勤務し始めた診療内科医だ。  皐月のカルテに今日外来の予約が入っていた。  物腰が柔らかく顔が整っているので外科でも噂が入るほどだ。  朝倉と黒木が同期で、よく休憩中に談笑しているのを見かけていた。 「同期ですけど、何かありました?」  黒木は若手でも優秀な外科医で、腕も良く精力的に働いてくれている。背は高く爽やか王子と若い看護師にも人気があった。  長い指先でページをめくり、黙々と論文へ視線を落とした。 「ちょっと、この患者さんについて教えて貰いたいんだけど。ああ、そういえば君の担当でもあるよね。」  画面に映し出された患者を指すと、黒木は手を止め、カルテを見入った。 「ああ、当直の時の患者さんですね。足は麻痺が残ってますが、その他の経過は良好ですよ。ただ倒れた際に頭を強く打ったようで、記憶が若干相違してるみたいです。」 「今日、朝倉先生の予約いれたのは君?」 「ええ、友人の桐生から相談があって念の為朝倉先生に診療をお願いしました。今は落ち着いて本人はあっけらかんとしてますけど、最初に札幌にいたような事を話してて、冗談かと思ったらその後の記憶が錯誤してるようです。」 「札幌……」 「そうです、最近東京にいた記憶がないそうですよ」  どきりと胸が痛んだ。あの他人行儀な態度が頭にこびりつく。 「……えっと、つまり、記憶がないのかな?」 「そうですね。あの夜は結構忙しくて、たまたま運ばれた患者の知人が桐生で、ばったり再会もして色々大変でした。まあ、患者さん、身寄りもないし、保険証や事務手続きをその同級生が代行してくれて助かりましたけどね。いつも冷静沈着なあいつが、あんなに動揺した姿見てびっくりしましたよ」    黒木は思い出したのか、疲れたように溜息をついた。  急に運ばれた身元不明の患者に対して、家族と連絡取れないとない場合、かなり厄介だ。  恐らく桐生は警察という立場も使い、昏睡状態の皐月の代わりに色々手を回して動いたのだろう。桐生家は経済界だけでなく、司法にも医療にも顔が広い。 「桐生君ね…」  不躾に睨んできた桐生の顔を思い出した。  気に入らない存在なのだというメッセージはわかった。 「桐生って、先輩知ってました?」 「何度か顔を合わせたよ。君の高校の同級生だろ」  黒木は都内の有名な私立の男子高校出身だ。  他人の振りをして、皐月に接触しないよう警戒をしているように見えた。 「…まぁもう少しで退院だし、やっと桐生の顔を見なくてすみますよ。流石に何度も顔を突き合わせてあれこれ様子を聞かれてますから、こちらは正直やっと解放される気分です。」 「そうか。まあ君の患者でもあるし、これからも経過を教えてくれる?朝倉先生の診療結果も見てみたいしね。」  さりげなく平静を装って、そこで会話を断ち切った。外科医は忙しい。常にオンコールで呼ばれ、二十四時間働いている身だ。  後輩の端的な報告と会話で満足いくわけもなく、蒼はただ倉本皐月の電子カルテを見ていた。早く朝倉が打ち込んだカルテを見たかった。

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