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第23話 対立する嘘
長時間の手術を終え、長丁場の仕事を無事終えた事に安堵しながら菫蒼はプライベートについて悩んでいた。普段悩む事もなく、公私混同などしない蒼だが今回は非常に頭を悩ませている。
「あれ?先輩、手術終えたんですよね……」
えらく難しい顔をして悩む菫に対し、隣の席の後輩、黒木 荻 が心配そうに覗き込んだ。無事に手術を終えた事は先程疲れ果てた看護師から聞いていた。
「なんとか六時間、頑張ったよ」
それだけ口にした。そして、目の前に重なりあう論文に目を通し、交錯する点と線のような記憶を辿った。
「あ!先輩、こないだの件、急に電話をかけてすみませんでした。学会の後でオフなのに、教授のお相手、俺一人では手に負えなくて……。助かりました!」
申し訳なさそうに黒木は頭を下げる。普段ヘルプもして貰ってる身としては無下にも断れなかった。
「……いや、僕も教授と話せて楽しかったよ」
あの後、到着と共に黒木から電話があり呼び出された。
皐月は気を使って、店のプリンとケーキを買ってくれお礼にと菓子箱を渡し、そのまま自分は乗ってきたタクシーでまた都内に戻った。
そして自宅へ到着し、シャワーを浴び、着替えると、深夜まで黒木と夜の店で教授の相手をした。本音はもっと皐月のそばにいたい、一緒に過ごしたいと強く願った。
皐月と食事をしたレストランは、弟の紅葉が所有するホテルを選んで、名前だけ自分がオーナーになっている。
皐月からかけることのない着信に思い切って誘った。料理も美味しく、会話も付き合っていた当時のような錯覚を覚える程楽しかった。
いや、それよりも、もっと充実したように感じた。
付き合っていた当時は、時折桐生の事を考えてるのが垣間見れた。だが、いまは真っ直ぐに自分と向き合って話をしたような気がした。
もちろん記憶を無くしたのはやるせないが、初めてまっさらな皐月と会ったようで新鮮に感じてしまった自分に驚きもした。
僕はもう一度、また、皐月に恋しているかもしれない。
菫はまた論文を流し読みをしながら考えた。
隣では黒木がカルテを打ち込んでいた。
記憶を無くした皐月は別人のようだが、やはり好きな気持ちは変わらず、以前よりも魅力的に映った。
揺れる車内の中、まだ目的地に着かないでくれと祈りながら、限られた時間の中眠ったふりをしていた。
当時は桐生の前から去った後悔と辛さで見てもいられないほど弱っていたが、その様子もなかった。
楽しかったが、麻痺が残った足が心配になり口実を作り最後まで送り届けたくなった。
そして皐月が眠った際に、思い切って手を握った。細い指と指を絡めて握り締めた。皐月は起きて離そうとしたが、耳まで真っ赤になり触れた部分も熱く感じた。
距離を縮めたら、少しでも自分の記憶が戻るのだろうか……。
戻ったら誤解を解いて、謝りたい
そしてまたそばにいたい。
皐月が入院していた時は夜勤の際、こっそりと病室に行き寝顔を見に行き、すやすやと眠る皐月を前に頬を撫でたり、手を握った。
つい最近まで自宅で寝ていた皐月とは違い、頭には包帯を巻いおり痛々しそうで、その姿は見ていても胸が苦しかった。
三年前といえば、自分と過ごした時間をそのまま失ったに過ぎない。
自分のせいで記憶を全て手放したのだろうか、側で寝ている皐月の頬を撫でながら考えたりもしたが答えは見出せなかった。
自分と過ごした記憶を全て否定されたように聞こえ、それを本人の口から聞きたくなかった。
このまま忘れられていた方がお互い幸せなのだろうか……。
菫は一緒に住んでいる桐生の顔を思い出した。
明らかに敵意を向けていた桐生の眼光は鋭かった。
桐生の意図はなんとなく分かっていたが、誰にも言いたくなかった。
桐生は嘘をついている。
菫は以前からその嘘に気付いていた。
どんなに取り繕っても、自分にはその嘘が見えない楔のように苦しめるのだ。
だが自分も負けるわけにはいかない。
色んな思惑が頭を駆け巡ったが、答えは見つからなかった。
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