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第17話 蒼からの誘惑
最悪な朝を迎えて、そのまま家をでた。
いつもの喫茶に逃げ込み、遅いモーニングを食べながら、本を読んで心を落ち着かせていると携帯がなった。
番号をみると見慣れない番号だった。
桐生だったら、すぐに着信拒否にしようと思っていた。
「もしもし……」
「あ! 皐月くん? ……いま、大丈夫?」
おそるおそる携帯ボタンを押すが、相手は明るく軽快な声で返してくる。
第一声で思い描いた声とちがい、ほっと胸を撫で下ろす。
「ああ、菫さん。昨日はありがとうございます。色々とご馳走様でした。……大丈夫ですけどなにかありました?」
ちらほらと平日にしては客のいる店内を見渡す。誰も電話には気にかけないで、コーヒーを口に運んでいる。
「ごめんね、急に電話しちゃって。……ちょうど、今日、学会で日本橋まで来ててね。昼からオフだし、よかったら、そのままランチでも食べようと思ってさ。いいところがあるんだけど、ひとりだと寂しくて食べれなくてね」
菫の恥ずかしそうな声が電話越しに聞こえ、あっけにとられて口をあけてしまう。
「……はぁ、……」
「だめ、かな?」
「えっと……、あの」
時計をみるとまだ午前十時だ。今から向かえば日本橋まで一時間ほどで着く。
「じゃあ決まりだね。メールに待ち合わせ場所と時間を送っておくよ」
生返事のような言葉にそう返された。かなり強引に、いや、けっこう無理矢理だ。了承と捉えると、あっという間に電話を切られた。
そしてすぐに携帯が震えた。集合場所と時間の詳細がメールにて送られている。外科医のせいだろうか、プライベートも手際がいい。
メールを開いて、地図と時間を覚えると電源を切った。朝の禍々しい記憶が蘇り、GPSで桐生に場所を辿られるのが尺に触わった。
自分は一般人なのだ。そんな何度も刺されることはない。
コーヒーを飲むと、俺は目的地へ向かった。
JRと地下鉄を乗り継いで、待ち合わせ場所である日本橋につくと汗ばむ湿気がまとわりつく。むっとする暑さはどこまでもねばっこい。
ポロシャツにチノパンというかなりラフな格好。はたして、こんな姿でいいのだろうかと不安になりながら、待ち合わせ場所であるホテルで菫を探した。
幸運なことにホテルには観光客の外国人が多く、ラフな格好でもなじめた。
しかし、ロビーを見渡した先にスーツを着たいた。
背は高く、ハーフで端正な顔立ちと甘いマスクの菫はどの宿泊客より目立った。長い前髪も分けて整えられ、ダークスーツもよく似合っており、一瞬モデルかと勘違いするほどだった。
明らかにちぐはぐな自分。声をかけてしまったことに後悔した。
「昨日ぶりだけど、顔色が悪いね。何かあった?」
「いえ、大丈夫です。誘ってくださってありがとうございます。……嬉しいです」
「そう。それはよかった」
菫は何か言いたそうにしていた。たぶん、このチノパンがよくないんだろう。でも、優しくほほ笑んでくれている。
もし、これが桐生だったら、と浮かんで頭を振った。あいつなら、深いため息をついて困った顔をするに決まっている。
「……もしかしてドレスコードとかあります?」
「あ、そうだね! ……ごめん、急に呼び出しちゃったからね。ちょっとコンシェルジュに聞いてくるよ。ここで待っていて」
そう言って、菫はフロントへ向かった。
菫の優しさが、朝の最悪だった気分を塗りつぶしてくれる。
帰ったら、爪の垢でも煎じてやろうか、と思った。
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