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第18話 秘めた乾杯

しばらくすると、フロントから戻ってきた菫に手を引かれ、地下にあるブティックに連れて行かれた。 ジャケットスーツやパンツを渡され、試着室に押し込められた。着替えて、見せようとすると会計はカードで済されて、さぁ出ようか? と、声をかけられる。 いやいや、ダメです。と、もちろん断った。待ち合わせは現金数万円しかない。おろおろする自分に、菫はカード決済はしたから、必要ないよと、にこにこと言い放つ。 こまった。とてもこまった。 どうしてこうなった。 ◇ 「……こんなの悪いです」 着なれないジャケットスーツに尻込みしつつ、東京を一望する窓ガラスを横目に自分は菫を前にして椅子へ座る自分がいる。 朝よりもよく晴れて、東京タワーとスカイツリーがくっきりと見える。下には模型のように車やバスが動いて、けたたましい騒音も聞こえることはない。 最上階にあるレストランは平日のせいか、それとなく人はいたが静かで落ち着いていた。流石に男一人では無理そうな場所だった。 お互い向き合って食べながら、まるで商談を交わしているような変な気分に襲われる。 菫は慣れた様子で、ウェイターを呼ぶとメニューブックが渡された。 目の前にはフレンチなのか皿の上に整えられた白いナプキンやフォークとナイフが並んでいる。 入院食と桐生の和食で慣れた胃には持ち堪えられそうにない。自分は魚のメニューに目を通した。 「そんな気にしなくていいんだよ。よく似合ってるし。それに一番は急に誘った僕が悪いんだから、気に病むことはないよ」 「……でも、代金は後でお支払いします。そして、ここは払わせて下さい」 タグをよく確認しなかったことを後悔した。恐らく数十万はする。絶対に高い。この布の柔らかさは上質なものだとわかる。後でネットでブランドとタグを確認しなければならない。 なんとなく、今月の入院費とこのホテルのランチ代などが浮かび、魚の名前ですら頭が痛くなった。 「べつに必要ないよ。……あっ! でも、そんなに気になるなら、またランチにつき合って欲しいな。食べ歩きが好きなんだけど、医者は皆忙しくて同僚も後輩も全然構ってくれないんだ。君がいると、一人で行けないところにも行けるし、それで十分なんだけど」 菫はメニュー表から顔を少し出すと、にっこりと子供のように笑うので思わず笑ってしまった。  ほんとかよ。  スーツを着こなしているだけあり、ギャップがかわいい。思わずほだされそうになる。 「菫さん、あのですね、お金はちゃんとしたいんです。分割払いでお返しするという条件ならいいですよ」 「そう? なら、分割にしよう。でも会わないといやだな。へんな振り込みは犯罪に巻き込まれるからね」 「……まるで、借金の取り立てみたいだ」 「はは、そうだね」 それまで緊張していた雰囲気が和んだ。 菫と話していると、自然に力が抜けてしまう。 「あ、僕のことは蒼でいいよ。……君のことは皐月くんて呼んでいいかい?」 下の名前を教えた記憶がなかったような気がしたが、菫の心配そうな顔に思わず頷いた。 「先生はつけた方がいいですか?」 「いや、それはやめて欲しいな。さっきまで散々センセと呼ばれて、仕事しているようだ。疲れがどっとでてしまう」 顔をしかめて笑う仕草がなんとなく、ラブラドールに似ていると思った。 一見どこぞのエリートサラリーマンに見えるような完璧な容姿をしてるのに、話しやすい。 「じゃあ、蒼さん……」 「あおいでいいよ。そう呼んでみて」 「あお、い……、さん」  そう呼ぶと、一瞬だけ菫の視線が鋭くなった気がした。だが、すぐに白ワインのグラスが二つ運ばれ、その視線はそらされた。 「……同僚にばれないように、一杯だけね」 菫は小さな声で呟いて、ウィンクをした。花の香りがして、グラスを傾ける。 ああ、モテるんだろうなと思った。 こんな素敵な恋人がいたら、幸せなんだろうなと勝手な思考が駆け巡る。 仕草を真似て、白ワインを口に含む。華やかな香りと、少しバランスの取れたミディアムボディの辛口が口にひろがった。 そのあとサーモンのグリルが運ばれ、たわいもない話を交わして黙々とたべた。ときおり、菫が淋しそうにこちらを見ているような気がした。 見つめ返すと、小さく笑う。 不思議と初めて会ったような気がしない。そんな菫に、いつの間にか、居心地の良さを感じる時間だった。

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