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第19話 記憶と混在

「今日はもう病院へは戻らないのですか?」 「うん、意外と学会が早く終わったからね。緊急の呼び出しがない限り今日はオフかな」 「ああ……、そういえばごめんね。ワインとか勝手に注文しちゃったけど平気だった?」 「大丈夫です。お酒はすきですから」 「そっか。そうだよね」  そうだよね? と首をかしげると、菫はあわてて、本当は僕もワインには目が無いんだ、と自慢げにしゃべった。  子どもか。と笑ってしまう。  そのまま互いの近況を話し、デザートが来るのを待った。 「……足は大丈夫? ごめん、職業柄のせいか少し気になっててね。話したくないなら言う必要はないんだけど……」 申し訳なさそうな顔をむけられる。 やはり歩いていると、麻痺した足をひきずってしまう。並んで歩いても、どこかいびつに見えたのだろう。 「リハビリでなんとか良くなりましたよ。ちょっと麻痺が残るみたいですけど、生活に支障はそんなにないから、平気です」 歩く際に、少しだけ足を引きずる程度だ。 運動選手でもない。養う家族もいない。恋人もいない。自分にとって、そんなに困ることではない。 そう言うと、寂しそうに菫は目を細め、またワインを口にした。 そしてグラスを置くと、テーブルにおいた手のひらに手を重ねた。大きく温かい掌の重さが伝わる。 「僕は専門外だけど、なにか役に立てるがあったら話して欲しい。足はきっと良くなるから」 菫は真剣な顔持ちでそう言い、桃のムースが運ばれるとゆっくりと掌を手の甲から離した。 料理はどれも絶品だった。サーモンのグリルと枝豆のビシソワーズ。流石、日本橋の有名ホテルだけあり、久しぶりの洋食に舌鼓を鳴らした。 結局ワインもボトルにして、二人で空けてしまった。 菫の仕事を心配したが、「優秀な後輩がいるから大丈夫だよ」とほろ酔いで、ますます心配になった。 ボトルも下げられ、最後にコーヒーが運ばれ、すでにほろ酔いの自分は水を飲む。 「皐月は1人暮らし?」  菫はコーヒーを一口飲むと、唐突に聞いた。 「その予定なんですけどね……」 ふと忘れていた桐生の顔が浮かぶ。 そして忘れていた朝の情事を思い出し、菫の顔から一瞬視線を外した。 あんな事があった後なのに、昨日会ったばかりの初対面の男と既に食事までしている自分が急に恥ずかしくなった。 だがその事実を桐生が知っても、身の安全以外は心配しないだろう。 「予定? 誰かいるの?」 「……いや、あの、知人と一緒に暮らしてます。少しのあいだですけど、母親みたいに色々世話を焼いてもらってます」 流石に朝の処理までした、とは口が裂けても言えなかった。 誤魔化すように笑ったが、今まで穏やかだった菫の顔はどこか冷たくかわる。まだ酔いが覚めない自分は気づくこともなく、へらへらと笑って、また水を口に運ぶ。 「……そうか。それは安心だね。そういえば、君の担当だった朝倉くんが記憶の方を心配してたけど、……どう? 何か兆しはありそう?」 蒼はそっとカップを持つ手首に指先で触れた。 朝、桐生に強く握られまだ少し赤くなっていた。 周りにはまだ遅めのランチを頂いている客が数名いて、カチャカチャと皿が重なる音も聞こえた。 「……、兆しとかはまだ……」 じっと菫は真剣にこちらを見てる。 それは患者を問診し、カルテを打ち込む医者の顔と似ていた。 な、なんだこの雰囲気は…… どぎまぎとする心臓を落ち着かせるように空笑いをし、 「記憶は……確か、三年分ないよね。ごめん、本当はカルテをみたんだ。記憶が少しは戻ったりとかはない?」 なんと答えて良いのか分からず、しどろもどろに酔った頭で言葉を探した。 蒼は急かすように食い下がってくる。 「記憶は……、まだもどってはないです……」 「つらくない?」 「え?」 思わず、下げた視線を上げた。 「それだけあったら、なにか忘れてるとかない?」 じっとこちらを真剣な面持ちで菫は見つめ返す。どうしてだろう? 菫なんて、会うのは今日を含めて二回目だ。 居心地の良さはたしかに感じるが、それほどまだ親しい間柄ではない。 「……三年といっても、仕事も家もありますし、その間に恋人がいたわけもないので対して変わらないです。俺は平凡な日々を送ってだけなので、思い出しても、その、すぐ忘れちゃうんです……」 要らぬ心配をさせないように、笑って言った。 「そうか……」 そのまま、菫は暗い顔になり急に押し黙った。 せっかく美味しいお酒と料理やデザートを食べたのに、どうしてか気まずい沈黙が幕をおろす。 これでは朝と変わらない。 そもそも、どうしてこんなにも記憶をしつこく掘り下げてくるのか、わからなかった。 そして自分は菫に対して、失礼な言葉でも話してしまったのではないのかと、急に心配になった。

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