「……ケーキですか？」 「そう、あそこのケーキセット、僕は好きなんだ。特にモンブランが濃厚で美味しかった。皐月は食べた？」 「……いえ、まだケーキは……」 失礼ながら、あの小汚い喫茶店は数回しか行った事がない上に、コーヒーの他はパスタとパンしか食べていない。 ましてこのモデルような男とのギャップの差を感じた。 菫はエレベーターの手摺りに寄り掛かりながら、また、笑った。重力は下へ下へと静かに沈むように浮遊感を感じる。 顔色は変わらず、酔ってもいなさそうだった。着崩したスーツ姿も艶かしく、昼間なのに男の色気が醸し出ていた。 「……それなら、大丈夫ですけど」 なんだか一般人との自分と比較すると酷く恥ずかしく思えた。菫から顔を晒し、流れる映る景色を眺めた。横目で菫がこちらを眺めている。 それからフロントにいたコンシェルジュの元へ行き、タクシーを呼んだ。 フロントは昼間の観光客は引き、閑散としていた。菫は預かっていたのか、元々着てた服が入っている紙袋と荷物とともにミネラルウォーターを受け取っていた。 フロントの端にあったソファに座りながらその様子を眺めていた。 ほろ酔い気分で、朝の最悪な気分は飛んで行ってしまったようだった。 あのまま喫茶店で仕事に打ち込んでいたら、まだ気持ちも塞ぎ込んでいた。 『もう、おまえには触れない』と言った桐生の顔を、人のいないロビーの幾何学的模様で作られた大理石の床を見つめながら思い出した。 所詮、記憶をなくしても桐生との記憶は無くなっていない。どつせならもっと遡って無くして貰いたかった。 平凡な暮らしより一番辛かった過去を無くしたかった。時折、桐生の顔を見ると過去の自分を思い出す。それはつい最近のようにも感じられる。 「そろそろタクシーが来そうだよ」 遮るように菫が顔を覗きこんだ。 意識が遠くなっていたのか、はっと顔を向けるとタクシーが待ち構えているのが見えた。 「すみません、考え事をしてました。あの、タクシー代は絶対に支払わせて下さい」 乗る前にタクシー代とケーキ代は絶対に払いますと強く菫に念を押す。菫は半ば呆れたように荷物を後ろに乗せると、タクシーの運転手に行き先を伝えた。 タクシーに乗り込んで発進すると、喉が渇き始め、菫から冷たいミネラルウォーターのボトルキャップを外し口に含んだ。 冷たい水は火照った身体に染み渡るようだった。勿論、車内は涼しかったが、ボトルワインを2人で飲むのは己の適用量を若干超えてしまったような気がした。 最後の気まずい雰囲気こそあったが、今日は本当に楽しく話し、よく笑った。 「僕にもお水、頂戴」 そう言うと菫は持っていたペットボトルを奪い取り、ごくごくと隣で豪快に喉を鳴らした。 ネクタイは外し、撫でた髪を少し掻き上げ、先程の堅苦しいイメージは消えていた。 水を飲むとやはり菫も酔っていたのか少しワイシャツに水を垂らした。 「……っ……」 引き締まった胸筋が薄く点として現れ、ワイシャツから肌が透けて見えた。 「菫さん、酔ってます？」 「……少しね。でも大丈夫」 菫は微笑まみながら、眠そうに目蓋を閉じた。 長い睫毛が微かに揺れ、菫は窓側に寄り掛かりながら寝息を立てた。 流れる景色が昼間なのに、どこか懐かしく心地よく感じられた。 覚えているのはそれだけだった。 心地よい振動とともに、邪魔にならないように車内の端へ身体を寄せながら、いつの間にか自分も眠っていた。 どのくらい寝ていたのか、カチカチというウィンカーの音で目覚めた。あと数十分で着きそうな看板名称が目についた。 指先を動かすと不意に大きな力を感じた。 気づくとゴツゴツとした指の感触が指の間から感じ、いつの間にか指先を絡めるように握られていた。 さらに菫の体重を肩から感じ、隣に凭れるように菫は寄り掛かり、規則正しい寝息が頬を掠めた。 黒く艶のある前髪が擽ったく、首筋を擽った。 菫の香水なのかムスクの香りが鼻を掠めた。 指先を動かそうとすると、絡められた菫の指が引き留めようと微かに動き、離そうとしない。 酔ってるのか…… 高鳴る心臓とどうしたらよいのか冷めた筈の身体が火照り始めた。