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第29話 ランチと喪失
「皐月の好みはどんな子なの?」
並んだメイン料理を前に菫は優しく笑みを浮かべ、唐突に質問を投げかけた。
目の前に座り、綺麗な所作で食事をする菫 蒼 は今日も完璧だった。長い前髪は綺麗に分けて整えられ、端正な顔立ちに黒いシャツにジャケットスーツを合わせ、大人の色気を出していた。
自分が恋人だったら、惚れ惚れと自慢気に眺めていただろう。
比較して平凡な自分は、未だかつて好みなどもなく、まともなお付き合いもないので、その質問には数秒の間を要した。
「好みはないですけど、セレブな人は無理ですね。小市民な俺に相応しい人であれば、誰でもいいです」
ふと桐生を思い出し、セレブでも小市民のような夕食を作る例外があったと言いそうになりかけてやめた。
「……そうか。じゃあ僕なんてどう?売れ残りだけどね」
菫は笑って戯けた。
超凄腕の有名外科医が自分の恋人候補に入ったとしても、それは詐欺か美人局としか思えず毎日疑心暗鬼な日々を送るのが予想できた。
「悪いですけど、俺が女だったらお願いしたいですよ?でも、お断りします。……蒼さんのような人は過去のトラウマで懲りてます」
蒼はどう見ても育ちが良く、桐生と似ており過去のトラウマを思い出させた。
身内にまで罵られ受けたその傷痕は深く、悲しさはまだ奥深くに残っていた。
その元恋人も今は恋人を作り、自分とは反対に周囲に紹介している。
真剣に付き合ったと思ったのは自分だけで、惨めになる程に恋愛運がないと痛感した。
「手強いなぁ。僕はしがない勤務医なんだよ?それに、確かにモテるけど、本当に好きな人には好かれなくて、困ってるのに……!」
菫は溜息を吐きながら、嘘臭く呟いた。
今日まで菫とは何度か誘われ、久しぶりに食事をした。話す内容も話題も楽しく、段々と打ち解け家での荒んだ心は癒された。
桐生とはあの日以来ギクシャクし、寝床は別になった。お互いに一定の距離を取りつつ、食事は一緒に取った。
なんて声をかければよいのか言葉が見つからず、それから進展がないまま数日が過ぎていた。
しかしながら、残念そうに嘆く目の前の完璧な男は、完璧すぎて単に理想が高いだけなんじゃないかと、恋愛偏差値が低い自分は考えた。
この完璧な男を好きにならない人間などいる訳もなく、まして自分は好きになった人間に好かれた事すらない。
身分相応の相手があまりにもかけ離れ、現実的に隣に自分がいることが想像できなかった。
「……まぁ、その相手の目が節穴か、菫さんに相応しくなかったという事なんでしょう。」
「じゃあ君の瞳は、節穴じゃないか」
間髪入れず、今日の菫はやけに食いついてきて困った。
「そうですね。俺は運が悪いので、いつも大事なものは手に入られないんです」
目の前に置かれたローストビーフを食べながら、上手く捻くれ濁した。
所詮自分の恋愛はいつも順調に行く事はなく、地味に地道に生きるのが正解なのだ。
やさぐれながら肉に夢中になると、菫も黙り込んでしまい、二人の間に沈黙が訪れた。
「……本当に、僕は候補に入らないかな?」
菫は食事を止めて、じっとこちらを見ていた。
急に真剣な口調で言うので、まるでプロポーズされている気分になり、突然顔が真っ赤になり耳朶まで熱くなった。
「……ッ……やめて下さい。世の女性が泣きます。蒼さんは確かにタイプですけど、本当に過去のトラウマで懲り懲りなんです。すみません。」
上手く逃げながら苦笑し、俯きながら添えられたブロッコリーを食べた。菫が選んだレストランの料理はどこも間違いがなく、格別で美味しかった。
今日は静かな一軒家のレストランで、都内なのに隠れ家のような造りをし、静かで落ち着いていた。
窓からは雨が少し降っており、樹々が濡れていた。
「……そっか。君は好きな人はいるの?」
急に方向性を変えられて、なんと返答していいのか迷った。
「……気になる人はいます」
「僕?」
どこまでも茶化されるので、また笑った。
「……あなたは候補じゃないです」
菫は大袈裟に肩を下ろし、大型犬のようにしゅんとした。その姿は子供のようで可愛かった。
恐らく菫のような男と付き合えたら、毎日が楽しくて幸せだろう。だが、手が届かない存在にいつまでも恋するのは、過去の恋愛で酷く痛い目をみて懲りた。
ましてやこんな完璧な男に、30代の足を引き摺る自分なんて相応しく思えなかった。
菫には桐生と同じように、周囲に紹介できる、もっと素敵な恋人がいる筈だ。
「……僕は君の事が好きなんだけどなぁ……」
蒼は困った顔で言った。
この色男の言う言葉はLoveではなく、Likeなのだ。騙される訳にはいかない。
「……はいはい、俺も菫さんが好きですよ。ただし、友人としてです。さ、ここを食べたら話してた美術館に寄りましょう」
苦笑してまた食事に戻った。
淡い期待と芽は今のうちに摘んで、菫とはこのまま友人のままでいたいと願った。
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