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第30話 過去の箱
レストランでの食事を終え、菫が行きたがっていたオルゴール展覧会を鑑賞すると、美術館の裏にある大きな庭園を散歩し、屋根のあるベンチに腰を下ろして休んだ。
久しぶりに訪れた美術館は公園の背の高い木々に埋まるように有機的な平面形状で展開される珍しい建築物で、冷房が効いた館内は静かでどれも新鮮だった。
オルゴール展は様々なデザインの作品が展示され、並んで歩く菫と一緒に楽しく様々なオルゴールを眺めた。それは不思議とどこか夢でも見たような錯覚を覚えた。
「今日は付き合ってくれてありがとう。オルゴールが昔から好きでね、1人で行くのも恥ずかしいから、助かったよ。……これ、ちょっとしたお礼」
菫は微笑みながら、美術館のロゴが印字された小さな袋を渡した。中には箱型の包みが入ってある。
「うわ……!ありがとうございます。なんだかすみません、俺はハンカチなんですけど、なんか…ごめんなさい」
包みからミュージアム・ショップでみかけた小さな箱型のオルゴールの模様が覗き、嬉しかったが、自分が用意したものが急に恥ずかしく思えた。
前回もスーツ代を現金で返すと、菫は3万だけ抜き取り『これで美味しいものを食べよう』と残りの現金を返され、今日のランチに充てられた。
せめてのお礼にミュージアム・ショップでクレーの絵が描かれたハンカチセットを購入したがもっとよい品物を考えれば良かったと後悔した。
「ありがとう、嬉しいよ。……本当は僕、何度も連絡してしつこく誘ったから、嫌われちゃったのか不安だったんだ」
照れ笑いをしながら、菫は飲見終わったコーヒー缶を隣のゴミ箱に捨てた。
「すみません。丁度、仕事の締切で立て込んでたんです。今日は会えて嬉しかったです。なんか、オルゴールが懐かしく思えて…変な気分なんですが、蒼さんと初めて見た気がしなく……あっ……!」
笑って言いかけながら取り出したオルゴールの包みを袋に戻そうとした瞬間、小包が手元から滑り落ちそうになった。
慌てて手に取ったが、更に足を滑らせバランスを崩してしまい、ベンチの後方に倒れそうになると菫の逞しい腕で抱き留められた。
「わっ……!」
「……危ない」
後方には手摺りがあり、危うく頭部をぶつけそうだった。
菫はそのまま身体を胸元へ寄せて、強く抱き締められた。甘く官能的なムスクの香が鼻腔を擽った。
菫はアメリカ育ちのせいかスキンシップが激しい。
「……すみません、大丈夫です」
暫くそのまま強く抱き締められて、おずおずと両手で離れようとするが、びくともせず広い鍛え抜かれた分厚く雄々しい胸筋の感触を味わった。
「気になる人、教えて」
「え……ァッ……」
同時に首筋を強く吸われ、甘く痺れた感覚が走った。
「……ねぇ、誰?」
「……えっ……と……」
さらに菫は力を緩めることなく、耳元で低く甘い声で囁いた。
「……皐月、教えて。」
逞しい腕でさらに強く抱き締め、誰かの視線を感じそうで皐月はもがいた。
「ちょっ……蒼さん……離してく……」
一生懸命、菫の逞しく引き締まった胸筋を押しながら、どう反応したらいいか悩んだ。
長い沈黙の間、ずっと強く抱き締められた。
菫は何も言わない。
その時、誰かの話し声がして自然と身体がびくついた。
「ごめん……。人が来るよね」
ふいに急に腕が緩まれたのを感じると、菫から逃げるように身体を離した。
「……人目もあるんですからやめて下さい。いくら海外育ちでも、日本なんですから、そういうのは好きな人にして下さい。俺にしても、無駄ですから。ほら、もう帰りましょう」
熱く火照る顔を見せないように、俯きながら立ち上がった。
「……ごめん」
菫の謝罪がもう一度聞こえ、そんなに立腹していない事を示そうと振り向いて笑った。
菫は何故か捨てられた犬のように悲しげに座ったままで、その表情が可愛くて思わず噴き出してしまった。
「……そうだなぁ。記憶が戻ったら、教えますよ」
戻らないであろう記憶のせいにして、その場を誤魔化した。
気になる人なんていない。
ただ振り回されて、一人でもがいているだけだ。
逆にその言葉が、菫をさらに悲しませたことをその時は分からなかった。
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