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第57話 蒼の好きな人
その日は晴天で、暑さも程々に落ち着き過ごしやすい昼下がりだった。
久しぶりの外来予約は、周りの患者のおおよそが診療を終えたらしく閑散としていた。
長い廊下の待合ロビーで、一人本を読みながら午後の外来受診を倦怠感を引き摺る怠い腰を下ろして呼ばれる数字を待っていた。
昨夜も蒼から連絡があり、重い気持ちのまま逢っては手酷く責められながら何度も愛撫され、落ちてくる悦楽によって抱かれた。
蒼のマンションのシャワーをかり、躰を洗うと、マンション近くのコーヒーショップで珈琲を飲んで病院へ直行した。
腰は怠く、寝不足もあり精神的には最悪だったが特に問題もなかったので、今日で最後の受診となる予定だった。
「倉本さん、お久しぶりです」
夢中になって楽しくもない本を読んでいると、いつの間にか目の前に長い脚が見えた。
爽やかな凛とした声が頭上から聞こえ、思わず頭を上げると入院で担当だった外科医の黒木が立っていた。
本当にこの男とはタイミングよく会う。
「体調はどうです?……一人でいたから思わず声をかけちゃいました」
黒木はにこにこと柔らかそうな栗毛を横に撫でて、調子良さそうに笑いかけてきた。
たまに本当に黒木は医者なのか?と疑うくらい人懐っこく近寄ってくるので、うかつに返答するのは危ぶまれる。
「……そうですね、あまり進展はないかな」
力なく笑って答えると、屈託ない笑顔は少し崩れ心配した顔になった。
周りはもう診療を終えた患者が全て帰り、廊下には黒木と自分しかいない。
「……そういえば、菫先生は進展があったみたいですよ。」
黒木は小声で嬉しそうに顔を寄せて笑った。
「……そうですか」
黒木は楽しそうに笑みを浮かべて、耳元で小声で話した。
昨夜の淡白だが執拗に責めながら雄の顔をした蒼が自分を抱くを思い出しながら聞き流した。
たまに蒼から連絡が来るだけで、前のように食事も外出もせずろくに会話もしていなかった。
黒木が話す蒼の意中の相手が、自分だけではないのはすぐに読み取れた。
「菫先生、やっと付き合えたようですよ。よくデートをしてるみたいで、たまに電話しながら会う約束をしてるのを見ちゃうんですよね」
そうか……。としか思えなかった。
付き合ってた頃は時間を見つけて連絡をくれ、甘く低い声でよく次の約束を取り付けていたのを思い出す。
それを覚えている分、優しく微笑んで話す蒼が想像できて辛かった。
同時に自分だけ繋ぎ止められるように置いてかれ、蒼は着々と自分の恋愛の駒を進めていた事にショックを受けた。
「……それは良かったですね。あの先生、格好良いから上手くいくと思いますよ」
再会した時の蒼が頭に浮かんだ。
白衣を着た蒼はネイビーのTシャツを着て、逞しく鍛えた胸筋が浮き出て色気がでてそこだけ別世界のように切り取られたようだった。
「まだ誰かは分からないんですけど、結構手を焼いてるみたいですしね。皆その相手を羨ましがって大変です」
べらべらと個人情報をいらぬ自分に楽しそうに提供する黒木は、昼下がりなのにとても残酷に微笑むように見えた。
「……そうでしょうね。俺もあんな素敵な人に思われたら羨ましいな……」
溜息とも言えぬ嘆息が出て、肩を撫で下ろした。
昨夜の冷たい蒼と、付き合っていた頃の蒼を対比させると、今の自分がどういう立ち位置かを理解させられた気分だった。
しょせん、自分は蒼にとって息抜きか遊び相手でしかない。
「あ……すみません、呼ばれました」
自分の番号が診療した前のモニターに映り、逃げるように荷物を持って蒼の恋人であろう朝倉のいる診療室に向かった。
「うわ、またすみません。ではまた」
申し訳そうに頭を下げる黒木を他所に、軽く会釈し診察室へ入った。必要もない情報を今日も黒木から入手し、気分は更に最悪だった。
「倉本さん、こんにちは」
中に入ると、肘掛椅子に腰掛けている朝倉が穏やかに微笑んでいた。
その顔はまだ蒼が優しかった、蒼と朝倉が楽しそうに食事してた時と大して変わらない微笑みだった。
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