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第58話 蒼からの電話
朝倉との診療を終えると、珍しく蒼から電話がかかってきた。携帯に菫 蒼 と表示されると、急に胸が高鳴り、どきどきと鼓動する自分がいて我ながら呆れた。
既に会計を終えて、最寄りの駅へ雑踏の中歩いてる途中だった。
「……さっき黒木くんが会ったのを聞いてね……昨日誘えば良かったんだろうけど、今日食事をしない?」
蒼の声は重低音で、電話越しから甘く低く響いて、耳先を優しく擽った。
それはマメに連絡をくれ優しかった頃と変わらず付き合っていた頃を思い出す。
今日は珍しく機嫌が良さそうだ。
いや、電話はいつも優しい。
食事の誘いなんて久しぶりだった。
会うと辛さが増すのは、まともに会話もせず求められるのが大きな誘因であると思い食事も誘われたが仕事を理由に断り続けると、誘いも来なくなった。
もう勘違いをしたくなかった。
記憶が戻り、あれから随分と様々な事を考え整理したつもりだった。
忘れた記憶は蒼と過ごした三年分で、出会いから別れまで全て抜け落ちたように忘れていた。
最後の別れを告げた蒼の声を回想する度、本当は忘れたままの方が良かったのではないかと何度も思った。
結局、自分は人生で一番幸せだったひとときを閉じ込めたかったんだろう。
しかしながら何故、蒼は電話で振った相手の前に、忽然と現れ頻繁に会おうとしたのだろう……と今も疑問に思い頭を悩ませていた。
乏しい脳内容量で考えた末、
蒼は刺された怪我人の元恋人に驚き同情し、後味が悪くなったので記憶がない自分に都合良く合わせていたのだろう。
そして別れたはずの自分が蒼と食事して勘違いしそうになり、さらに自分の弟の恋人にまで手を出して怒りをかった。
そこまで考えが行き着き、蒼との見通しのない未来を悟った。
もし記憶が戻ったと知れたら…と考えると、汚い自分に嫌気がさし、蒼は今以上に冷たく冷淡に接してくるんじゃないか。
再会しなければ、まだ幸せだったんじゃないかと何故か桐生の顔が思い浮かぶ事もあった。
そう考えても、蒼の怒りが鎮まることはなく現実は変えられないでいる。
過去から学ぶ事もなく、擦り切れそうな思いを隠しながら蒼の電話に答えた。
「……うん、いいよ。空いてる」
蒼が恋人と仲良く過ごすのを知りながら、あの優しかった頃の蒼の記憶を引き摺って、傍にいても良いのだろうか。
結果は自分も最低で、その低く穏やかな甘い声に流されていた。
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