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第59話 蒼との食事

「……黒木君が君の事、気にしてたよ。元気がなさそうだって」 蒼は個室の落ち着いた雰囲気の懐石料理を予約していた。 運ばれてくる料理は四季を通じ、緑の森から放たれる、清冽な空気を感じながらも心癒すひとときを感じさせていた。 その日は天気もよく、黒木との会話で久しぶりに蒼から誘われた食事を珍しく了承してしまっていた。 蒼に恋人が出来たと、嬉しそうに教えてくれた黒木の笑顔を思い出しながら、目の前の男をみる。 季節が秋になったせいか、蒼はダークトーンのニットにグレーのジャケットを羽織り洒落感を入れつつ着こなしていた。 この男が恋焦がれる姿を知っているだけに、その表情を見せる事なく、今日の蒼は淡白であっさりとしていた。 蒼は運ばれてきた碗に手を添え、箸を静かに突いては口に運んだ。 「そうかな。一応今日で受診も最後で、やっと解放されたよ。結局、記憶も戻らず仕舞いで普段と変わらないかな。」 力なく笑って、以前と同じ調子で会話をしたつもりだった。と言っても、蒼とこうやって会話するのは1ヶ月ぶりである。 「……記憶、まだ戻らないの?」 目も合わせず、蒼は俯きながら料理を食べながら聞いた。 以前なら微笑んで目を合わせてくれたが、やはり会うと蒼のつれなさは健全で、現実を思い知らされる。 「……うん、今は無理だけどいつか思い出すと思ってる。まあ、その時を楽しみにしてるよ」 「そうかな、無理に思い出さない方が良いと思うよ。記憶なんて必要なければ自然と忘れるものなんだし、忘れた記憶も些細な日常だと思うよ」 唯一の支えを否定された気分だった 蒼は運ばれてきた冷酒を口に含んで、何故か怒気を含むような低い声のように聞こえた。 自分にとって失くした記憶は些細な存在だったのだろうか。 確かに昔付き合っていた恋人との記憶なんて、新しい恋人がいれば無い方がいい だが、何度も思い出す蒼との思い出は甘くて幸せで、自分の拠り所だった。 「そうかな…。俺は思い出したいと思ってるよ」 「そう、それなら思い出すといいね」 蒼は冷たく言い、また箸を進め会話はそれとなく続いたが何を話したか覚えていなかった。 味気ない懐石料理を噛みながら、昔の記憶に残っていた蒼の焦がれたひどく甘く囁いた姿を思い出していた。

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