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第72話 朝倉との食事
朝倉と駅に向かって歩きながら、以前皐月と行った隠れ家的なレストランを予約し、そこで夕食と酒を嗜んだ。静かで落ち着いており、疲れた身体には丁度良かった。
「菫先生は海外に戻らないのですか?」
頬をほんのり赤く染めて、朝倉が赤ワインを口に含んだ。
赤ワインは色合いは濃紫赤色で渋みも富んでおり、しっかりと力強い重厚な味わいだった。
ボルドーワインの特徴でもある渋みは、熟成とともに柔らかく円みを帯びるので長熟タイプでよく肉料理に合っていた。
「もう君まで聞いているんだね……」
「あ……菫先生は目立ちますからね。噂で耳にしているので、どうなのかなと……」
朝倉は小声で俯いた。
大きな病院だとしても噂は直ぐに回るのは承知している。
朝倉まで耳にしているということは、院内全体が知っているという事だ。
たまたまアメリカの友人に電話したら、これ見よがしに資料を送り付けてきて、ボストンの学会を口実にこっちに来ないかと誘われているのは事実だった。契約金もいいし、待遇も日本より働きやすい環境は魅力で、今唯一心残りなのは皐月だけだった。
もう少し皐月の傍にいたい。
許してくれるなら、ずっと傍にいたい。
だが、もし皐月の記憶が戻ったらと考えると怖かった。
過去の自分と現在の自分の対比があまりに酷すぎて、皐月をさらに傷つけるのは分かっていた。
散々傷つけて、今更僕は何を考えてるんだろう……。
皐月を何度抱いても、目醒めると皐月は腕の中から消えて、逃げるようにいなくなっていた。それが悲しくて、いつも皐月を激しく涙を浮かべて意識を手放すまで酷くしてしまう悪循環だった。
付き合っていた頃より優しく愛する事も出来ず、ただ皐月に欲望をぶつけ苦しませてるのは自覚していた。まして皐月の過去を知っていながら、皐月が一番苦しむ方法で縛り付けている。
そんな自分にそろそろ嫌気が差し限界を迎えていたのは言うまでもなかった。
もし、皐月の記憶が戻ったら、自分は皐月の前から消えるつもりだった。
そのぐらいの代償は当たり前で、次の職場は逃げ道に作ったに過ぎない。
「……うん、考えてはいるよ。でも、もう少し時間をおいてでもいいかな」
蒼は運ばれてきたメインを切り分けて食べた。
少し前は皐月とこうして向かい合いながら楽しく食事をしたのに、どうして自分はまったく違う相手に皐月を重ねながら似たような事をしているのだろうと疑問になった。
料理と酒は美味しいが、どうしてか前より味気なく感じた。
窓に視線を移すと新緑は色づき、すっかり夏から秋、そして冬へと変化しそうだった。
あとで皐月に電話しよう。
声だけでも訊きたい。
「朝倉君も飲む?」
「そうですね、僕が注ぎますよ。菫先生も飲んで下さい」
蒼は赤ワインが注がれる前に、残ったワインを一気に飲み干した。
恥ずかしそうに頬を染めて俯きながらワインを注ぐ朝倉を目の前に、そんな事を考えていた。
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