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第80話 越えた夏
『皐月、好きだよ』
夢の中の蒼は優しくて、愛しくて切なかった。
甘く低い声が耳元で囁かれ、愛撫するように触れて擽る。
あの頃を思い出せるなら、遠く薄れていく記憶に浸りたい。
朧げな記憶は、最後に逢った蒼の酷く冷淡な視線と棘のある言葉で、はっと醒めた。
前戯も愛撫もする事なく、人形を相手にするような淡泊な感覚が襲う。
最後に選択した意味のない行為は現実に引き戻すだけでも正解だった。
昨年と同じように怠い暑さが襲って、セミの声がじわじわと耳障りに聞こえる。
去年は通り魔に刺されて、記憶も失い散々の厄日だった。犯人も捕まらず、無駄な医療費だけ痛い出費だったのはよく覚えている。
あれからもう1年経過していた。
「おい、また食べてないだろ……」
カップラーメンの空をうんざりしながら、桐生は寝ている自分を上から見下した。
忙しい筈なのに、日本の平和は継続されてると思わせるくらい、よく桐生は最近うちに立ち寄って来る。
「夏バテなんだよ……。ほっといてくれ」
「今日は寄せ鍋やるから、ちゃんと食べろよ」
なんで暑い日に鍋を他人の家でやるのか理解できない。
ましてや元彼の新居で、関係も終わっているのに。
頼んでもないし、食欲も湧かず助かるが余計なお世話だった。
「……もうほっといてくれよ」
やる気も食べる気も暑さのせいで、全て力が萎えていた。
なのに最近桐生は食料をもっては毎日せっせと様子を確認しに通ってくるのだ。
仕事も忙しく、たまに泊るが始発でそのまま仕事に行ったりと両立はしているらしい。
蒼との関係が終わってから、1年経った。
あれから蒼を一度だけ遠くから見ただけで、連絡もなにもかも終わった。
春先に担当と打ち合わせした時に、蒼と食事したホテルのラウンジで見かけた。
窓からは桜の蕾が膨らみ始めて、冷えた空気を和ませていた。
平日の昼間のせいか客足は少なく、長身の蒼が姿を見せると周囲のざわつきに気づいて顔を上げて確認するとすぐに俯いた。
蒼は珈琲を飲んで窓を眺めていたが、顔を上げて笑うとすぐに入口から朝倉がやって来た。
穏やかで落ち着いた笑顔で朝倉を迎え、そのまま上のレストランへエレベーターに乗り込んで消えた。
結果、仕事の打ち合わせを早々に切り上げて、持っていた携帯を解約した。
鳴るはずもない番号を大事に持っていた自分が馬鹿馬鹿しくなり、酷く惨めに感じたからだ。
もう二度と表示しない名前を未練たらたら待っていたが、ようやく分かった。
戻ってこないと言っていた癖に、度々訪れていると黒木から電話で聞いていた。
百聞は一見に如かずというもので、ようやく自分の立ち位置を自覚できた。
朝倉とはまだ関係は継続していそうだった。
よい収穫と思って、帰って新しい携帯を横に泣いたのは言うまでもない。
やはり自分の好みの男とはいつまで経っても、上手に関係を築けない。
「……蒼さんとは結局どうなんだよ」
「……大体は察しついてるんだろ。……それより、最近さぁ……俺は桐生の兄さんに会えて良かったと最近考えるんだよね。」
桐生には結局、まだ何も話していない。
そのかわり桐生は義孝さんや葉月さんの話をやっと打ち解けるように話し、葉月さんと付き合っていない事がわかった。
珈琲の店にも足を運ばなくなって、蒼と終わって2ヶ月後経った頃だ。
葉月さんの事を蒼は知っていたのか、知らなかったのはどうでもよかった。
桐生への罪悪感がなくなり、少し肩の荷が降りただけだった。
ぼんやりと寝ながら桐生の顔を見上げた。
昼間から仕事が進まず、ずっと今日は冷えた居間で寝そべって天井を見ていた気がする。
桐生は仕事帰りなのか、白いワイシャツを着て額に汗が滲み出ていた。
「……どういうことだよ」
急に声が低くなり、怒気を含んだ声だった。
片手にはレジ袋にネギが見えていて、今日の夕食の材料は揃えたようだ。
「……本当に別世界なんだよ。義孝さんに言われた通り、俺は一般人だし、君達みたいな上流社会と違って平凡で生きていくべきなんだと思い知った」
桐生の兄に指摘された事を朧気な記憶で思い出しが、すでに記憶は褪せて消えていた。
とにかく蒼との爛れた関係が終了すると、いつも通りの生活を送るので精一杯だった。
「……変わらないよ。兎に角、おまえはちゃんと食べて寝ろよ。全然寝てないだろ……」
桐生は溜息をついて、人の家を勝手知るやで台所へ向かい、夕食の準備をし始めた。
暇人の戯言は聞いてくれないようだ。
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