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第85話 断る皐月
ムッとする暑さと鬱陶しい雑踏の中で、黒木は離した手をまた掴んだ。大きな掌が手首を握りしめて、身体が後ろに引かれるのを感じた。
あれ……、ちょっとこれはちょっと……。
自分の突拍子もない行動のせいで、黒木を巻き込んでしまい気まずい思いと嫌な引き金を引いた気がした。
「……俺を、利用していいですよ?」
さらっと笑って言うので、雑音に掻き消されそになり、一瞬黒木が何を言ったのか分からず理解出来ずにいたがちゃんと耳には届いていた。
いや、な、何を言われてるんだ自分は……。
暑さで低下した思考回路を奮い立たせて、絞る声を腹から出した。
「……そういう事は言わない方がいい。俺は前にそれで人を傷つけたから」
自分で言った言葉に蒼の顔が浮かんで、それを急いで掻き消した。
「じゃあ、宿泊している間だけ俺の恋人にして下さい」
「は?」
「……先輩とどういう関係か分からないけど、あと1週間ちょっとは恋人を演じさせて下さい。フリでもいいですから」
「いやいや、君にメリットがない。話が飛躍してる。兎に角、だめ、絶対それはしない。なんでそんな話になるのかな。何か目的でもあるの?」
「……目的はないですけど……倉本さん、先輩と何かありますよね」
「……ないよ。昔、ちょっと喧嘩別れみたいに離れたから、単なる腹いせだよ。大事な先輩に失礼な事をしてごめん、申し訳ない」
「……別にいいです」
「今は新しい人もいるだろうし、もう向こうも忘れてるよ」
「なら、先輩も関係ないし、どうせ俺達二人の話ですから恋人の振り、して下さい」
落とし所の見えない押し問答は、噴き出していく首筋の汗を感じ、イライラと見えない返答で消えていった。
しかし、黒木は負けじと爽やかに微笑んで、強引に押し切ってくる。
自分で原因を作ってしまったせいから、黒木の力を手に感じながら、その強引さにすっかり後退っていた。
そして黒木は、じりじりと照りつける陽光と同じように前へ迫ってきた。
このままでは押し切られてしまう。
面倒な事は出来れば避けたい。
「……百歩譲って……恋人じゃなくて友達がいいんだけど」
じりじりと迫る黒木に押されて数歩脇に寄った。
いつの間にか人通りは少なくなっていた。
流されやすい自分は、これ以上誰かに人生を振り回される事を警戒し、一歩も引かない黒木に落とし所を持ち出した。
黒木は納得したのか、手を掴んだまま満面の笑みを浮かべた。
「わかりました。じゃあ今日はもうちょっと前より親交を深めましょう。段階を踏んだらまた交渉します」
「いや、それもごめん被ります。君がデメリット乞うだけだから。止めよう。平凡に生きたい。とりあえず、映画見て気分を変えようよ」
そう言って、強引にタクシーを拾い黒木を押し込んで映画館に向かった。
茹だる暑さのせいで、頭もよく働かなくなって映画館の冷えた空気で冷静さを取り戻したかった。
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