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第88話 桐生と蒼1

桐生はその日の早朝、いつもの店で熱い珈琲を片手に書類を確認していた。 傍にあった携帯が珍しく振動し、緊急案件かと身構えたが表示された名前は菫蒼(すみれ あおい)だった。 『もしもし、桐生くん。僕だよ。今大丈夫かな?』 『……蒼さん、いきなりどうしました? 今、朝の7時ですよ』 『桐生君、皐月をお願いしてもいいかな?』 『お願いって……子供じゃないんですよ、あいつは』 『君は今、あの店で珈琲でも飲んでるだろ?』 『……それが何か?』 『忠告したのに、会ってるよね』 『同意ですよ』 『……そこまで僕も寛容じゃないんだ。結局、君への嫉妬で皐月を許せなくなって、何度も躰だけ繋いでさっき捨てたんだ。もう二度と会うつもりもないよ。だから、皐月を励ましてあげて』 『最低ですね』 『そうだね、でも今なら皐月を手に入れられると思うよ』 『……それは自分が決めます。皐月はモノじゃない』 『そう。でも皐月はずっと君の事が好きだったし、結果上手くいくよ』 『皐月はあなたの事が好きだった筈です。毎朝辛そうにして、貴方のマンションからここまで来てましたよ。見ているだけで辛そうだった』 『そう、でも僕はどんな酷い事をしても……結局、君の所へ戻るのも許せないんだよ』 『それは屁理屈ですよ。貴方は俺が、結局皐月に手を出さないのを承知しているはずだ』 『そう、でも抱き心地は良かったはずだ。それも同意かな?』 『……それは俺のせいです』 『そっか。……君なり、新しい恋人が出来たら、皐月に伝言を伝えて貰ってもいいかな』 『本人に直接伝えて下さいよ』 『散々傷つけて、今更言えないよ。随分と傷つけたんだ。さっきも言ったけど、もう会うつもりはないよ。つまり、僕は皐月から手を引かせてもらう』 『勝手すぎます』 『そうだね。でも、皐月は僕なんてまたすぐ忘れるから大丈夫だよ。今別れたら、散々つけた傷も浅く済む筈さ。……だから、恋人が出来たら伝えて欲しいんだ。本当はずっと好きだった。ずっと大切にしたくて、それが出来なかった。ごめん、愛してるよって……ちょっと僕は、気障(きざ)だね。恥ずかしいな』 『気障ですね、俺が恥ずかしくなります』 『……ははっ、ごめんね。最低な役だけど、お兄さんの事はちゃんと釘をさしておくから、君も頑張って。じゃあ、さようなら』 蒼との電話はそれきりだ。 春に来日したと聞いた時には、すでに日本にはいなくボストンに帰国していた。

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