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第90話 箱の中

その後、桐生とは互いの仕事の話をして食事を終えた。 なんとも言えない気持ちでロビーまで桐生を見送り、部屋に戻ろうとエレベーターに乗り込んだ。桐生は仮眠をとって、また仕事に行くようだった。 相変わらずの多忙ぶりに呆れながら、さきほどの蒼の話を思い出した。 これ以上答えはないんだろうな。 蒼は自分を切り捨てたことに変わりはない。 お互いが思い合っても、上手くいかないことは多々ある。 すでに終了した関係を振り返っても、時間の無駄だ。 そのままバーに行って飲んでも良かったが、流石に二日続けて飲むと、溺れてしまいそうでやめた。浴びるように飲む程でもなく、ただ無性に寂しかった。 部屋へ戻ろうと宿泊者専用エレベーターへ乗り込み、大理石仕様の床を踏み顔を上げると、すぐ目の前蒼が立っていた。 最悪だ 無常にもエレベーターの扉は閉まり、乗組員は誰もいなかった。 逃げ場を失った自分は大人しく上へ上昇する箱で溜息をついた。 「こんばんわ、何階かな?」 蒼は横の階数ボタンを選びながら落ち着いた表情で訊いていた。 上質なスーツを着こなし、優雅で余裕のある大人の対応だった。 優しく甘い低い声も酔った自分には心地良く、狭い箱でよく響いた。 「……47階でお願いします。すみません」 俯いて不愛想に答える自分が酷く惨めに思えた。 自分にも蒼の余裕が欲しかったが、無理そうだ。 「黒木くんは?」 「……え?」 「泊ってるんだよね、二人で。仲が良さそうだから羨ましいよ」 穏やかな声が後ろから聞こえ、胸を締め付けた。 その余裕の態度に素直になれずに、思わず嘘を重ねた。 「疲れているようで、先に寝てます……。彼は、大事にしてあげたいんです」 「……そう」 蒼の余裕の態度が、羨ましかった。 部屋には誰もおらず、締切を待つPCが暗い部屋で1台待っているだけだ。 意味のない嘘が馬鹿みたいで、情けない。 横目で蒼をみようとするが、背後に立っているので何をしているのか表情も分からなかった。 おそらく、このまま部屋へ戻ったら、もう二度と会えない。 お互い無言で、沈黙の中、静かに上昇していく箱の中から煌めく夜景が横目で見えてきた。 美しくも儚いその情景は、最後だと思うとただ胸を締め付けた。 最後に何か言い残したかったが、言葉が浮かばない。 それでも何か言いたくて、懸命に言葉を考えた。 好きだった とも 黒木と付き合っていない とも大した言葉は浮かばない。 無常にも高層階のエレベーターは、最新式なのかすぐに自分の希望した階へ到達した。 「蒼、おやすみ」 振り返って微笑んで、狭い箱を出ようとした。 本当にこれで最後だと思って、瞼を閉じて前へ数歩足を運んだ。 一瞬だった。 急に手を引かれて、大きな掌が手首を掴んだと思うと、まだ箱の中に引き返された。 頬には分厚い胸板と懐かしいムスクの香りを感じ、力強い腕で抱き締められた。 夢だ。 きっと、酔ってる。 「……さすがに、黒木君はないと思うんだ」 抱き締められたまま、小さな箱は上昇し、どんどんと煌めく景色が遠目で小さく見えた。

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