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第20話

「ラウが戻るまで、エリファには妾の話し相手になってもらおうか」  ラウが聖樹のある聖域まで様子を見に行くのを見送った後、アルベルティーナはそう笑ってエリファレットをお茶に誘った。  見かけない花を咲かせる花園に誘われた。甘く芳しい匂いに、エリファレットは鼻をひくつかせる。 「そなたには匂いがきつかったか?」  女王は手ずからお茶を入れながら、エリファレットの様子に笑った。  エリファレットははっとして、慌てて首を振る。 「いえ、嗅いだことがない匂いだったので気になって……つらくはないです。とてもいい匂いがします」  花も、お茶も、森の匂いも、ディノクルーガーの森に満ちている空気はどれも新鮮で真新しい。  エリファレットが目を輝かせると、アルベルティーナの目が嬉しそうに細まる。  現実味がないほど美しい麗人だった。世界で最も古い種族の一つである精霊族は、総じて顔の作りが端正だと言われる。だがその中でも、かの女王は抜きん出た存在だった。足元に触れるまで長く伸びた髪も、月光を集めたような大きな瞳も、愛らしい唇も、全てが緻密に計算されてアルベルティーナという芸術品を作っている。ディノクルーガーの森の神気に包まれ、神々しくさえあった。  ラウの隣に立つと、煌びやかな一枚の絵画を見ているようだった。  途端ピリッと、背中が痛んだ。  きゅっと眉間にシワを寄せ、アルベルティーナが差し出してくれたカップを両手で握る。  モヤモヤとした感情が胸の中を渦巻いていた。  アルベルティーナがラウの隣に立つ姿を見たくない。抱き付いた彼女をラウが抱きとめた時、エリファレットの心臓は冷たい手で鷲掴みにされたように痛んだ。 「耳と尻尾が垂れておるな。ラウが心配か?」  カップを握り締めたまま動かないエリファレットに、アルベルティーナの声が柔らかく届く。  居丈高な口調なのに、彼女の声はそれをまるで感じさせない。心地よくさえ届いて、エリファレットは顔を上げる。  自分の内側の感情を、この美しい人に語ることは出来なかった。 「……ラウは、どれくらい蟲退治をしてるんですか?」  定期的にやってくる依頼だと言っていた。一回や二回ではないのだろう。ここを訪れ、彼女と会うことも数回ではないのだろう。  かすかに声が沈んだが、アルベルティーナは気付かないように優雅にカップを傾けた。 「そうだな……ラウに依頼するようになってから、五、六年は経つか……」  時が過ぎるのは早いな、とアルベルティーナが楽しそうに笑う。  まだ駆け出しの頃だったと言う。腕はあっても経験値と知名度が皆無だった時からの付き合いだ。 「ミレイアの紹介で初めてやって来た時は、ラウはまだそなたと同じくらいの背丈しかなくてな、こんな小さな人間が蟲退治など、本当に出来るのかと疑ったくらいじゃ」  仲介屋ミレイア・トイフェルの名と信用がなければ、門前払いだった。疑いの目を向ける森の民に、ラウは結果で証明して見せたのだ。 「三回目か四回目に頼んだ時に、ラウが使っていた剣が折れたこともあった」  蟲は太古から存在するものだ。並の剣ではすぐに刃毀れし、使い物にならなくなる。蟲退治途中で剣をダメにしたラウは、折れた剣で蟲たちを殲滅した。 「あの時はラウに大きな怪我を負わせてしまった……」  花の顔に影が落ちて、憂おびた瞳が伏せられる。その時の怪我がどれほどのものだったか、彼女のその表情だけで推し量るには十分だった。アルベルティーナがラウをどれだけ大切に想っているのか、その表情だけで理解出来てしまう。 「今ラウが使用する太刀は、その時の詫びとして渡したものだ」  精霊族の始祖が天界から賜ったとされる神剣だ。だがそれは精霊族に下賜されたにも関わらず、彼ら精霊族がふるうことが出来ない代物だった。精霊族から力ある種族へ、必要な時に必要な場所にあるようにと手渡される物なのだ。 「……そんな大切なものを、渡して良かったんですか?」  ドキドキと脈打つ心臓と呼応するように、ギリギリと全身が痛んでいた。  エリファレットはそれを悟られないようにつとめて笑顔で、秘蔵されていた神剣の所有権を譲った女王に尋ねる。  アルベルティーナはそうだな、と可愛らしく小首を傾げた。 「……皆は止めたな」  特にブロームなどすごい形相でアルベルティーナに抗議に来たくらいだ。普段苦言を呈すことはあっても強く抗議することがない彼に、アルベルティーナは目を丸くしたものだ。  曰く、あれは天が下賜くださった退魔の太刀である。それを人間に与えるなど言語道断である。来るべき時のために大切に保管されるべきである。  決して姫殿下の私情で人間に下賜していいものではない。 「私情、ですか……?」  老ブロームの真似をして語ったアルベルティーナに、エリファレットが眉を寄せる。  何故かじわりと腹の奥が冷えて、動悸が収まらない。それでも聞かずにいられなくて、喉がカラカラのまま尋ねる。  アルベルティーナはなみなみと残るエリファレットのカップを一瞥し、自身のカップを傾ける。 「妾がラウを慕っておることは皆知っておるのでな……ヒト族が妾の夫になるのでは、と案じておるのだ」  ドクンっと、心臓が一つ大きく脈打った。ピリピリっと耳と尻尾の毛が逆立って、皮膚をザワザワとさせた。 「……っ……!」  一瞬にして、ラウとアルベルティーナが幸せそうに寄り添う姿が脳裏に浮かぶ。さっき見た光景が呼び水となって、それはより鮮明に克明にエリファレットの頭の中で出来上がっていった。 「だが妾の私情などもとより関係ない。あれは渡るべくしてラウの手元にある。妾は時を見誤りはせぬ」  アルベルティーナが淡々と言葉を紡ぐが、エリファレットの耳には水底から聞くように遠かった。  頭の中で、どんどんと妄想が膨れ上がっていく。  ラウは美しい麗人の腰を抱き、見たことがない笑顔で彼女を見つめている。その視界の端にでもエリファレットが映り込むことはなく、ラウは一瞥すらしない。初めから存在しなかったように、エリファレットを映すことなく去っていく。 (嫌だ……!!)  ラウがエリファレットを見なくなる。エリファレットのそばからいなくなる。そんなことは耐えられない。  カラカラに喉が乾いて、声が出ない。全身が刺すように痛んで、動悸が激しい。銀の被毛が逆立って、ザワザワと揺れる。 「ぁ……はっ……はっ……っ……」  呼吸が激しくなり、人型を保っているのが難しくなる。全身の痛みに耐えられず椅子から転げ落ちたが、それにすらエリファレットは気付かなかった。  目の前が真っ赤になり、息が苦しく全身が痛い。 「エリファレット!!」  激しく喘いだエリファレットの胸の内に、アルベルティーナの声が真っ直ぐ入り込んだ。  真っ赤になっていた視界が戻り、エリファレットは彼女に両頬を包まれていることを知る。 「……ぁ……」  息がしにくくて、視線がぶれる。頭を彼女のか細い二本の腕に支えられていることはわかるが、どうしたら視線が合うのかわからない。 「妾を見よ」 「……ぃ……め……っ……?」 「妾を見よ、エリファレット」  頭に直接響く声が、命の水を注ぐようにエリファレットの中に入ってくる。柔らかく、穏やかで優しい。暖かくまろいものに、エリファレットの自我が包まれる。  夜の安寧を優しく照らす月光が、エリファレットを見据える。 「……め、さま……?」 「あぁ、大丈夫だ。落ち着け。ゆっくり息をしろ」  ドンドンと耳元で鳴っていた鼓動が遠くなり、視界が開けていく。呼気が戻って肺に新鮮な空気が入り込み、体の痛みが引いていく。ザワザワとしていた皮膚感覚が収まりをみせて、耳と尻尾が疲れたように垂れる。 「ぼく……は……?」  落ち着いていくほどに、何をしていたのかとエリファレットは青くなった。頭を女王に預ける形で、地面にしゃがみ込んでいる。  ディノクルーガーの森の女王に頭を支えられているなど、ブロームが見たら卒倒しそうだ。だがエリファレットの体は、鎖をつけられたように重かった。  意識はあるのに、どこかぼんやりとしてしまう。 「……ご、め……なさい……」  胸がシクシクと痛んでいる。口が痺れたように、言葉が出てこなかった。  辿々しく謝ると、アルベルティーナは苦くも柔らかく微笑んだ。 「いや……妾も不用意じゃったな。大事ないか?」  アルベルティーナは支える手をそっと離し、エリファレットはゆっくりと自分の体を支える。  地面が緩やかに波打っているように、体がゆらゆらする。柔らかな草の上にしゃがんでいるのに、自分の体の重さで潰れてしまいそうだった。  アルベルティーナが、そっとエリファレットの銀の髪を撫でる。夜の安寧を穏やかに包む月光の瞳が、慈愛と哀しみに満ちる。 「エリファレット、そなたは銀の狼族だ。その祖は、天に仕えし聖獣にまで連なっておる。その矜持を誰にも明け渡すな」 「姫さま……?」  ぼんやりする思考のまま、緩慢な動きで目を上げる。彼女の声は透き通る水のように体に染み込むが、今のエリファレットには飲み込むまでには至らない。  だがアルベルティーナは続ける。 「心強くあれ、エリファレット。悪しきものに囚われぬように。絶望に目を閉じ、耳を塞ぐことなく、立ち向かえるだけの強さを持て。己を守るのは、内に抱きし希望だけじゃ」 ―――エリファ、愛しいエリファレット ―――忘れないで ―――貴方が私の希望よ  何故だろうか。アルベルティーナの言葉で、エリファレットは今は亡き母の声を思い出した。  息も絶え絶えに、最期の言葉をエリファレットに伝えようとしていた。  ぐっと胸が詰まって、鼻の奥がツンと痛んだ。じわじわと揺れる視界に、忙しく瞬きを繰り返す。  母の声とアルベルティーナの言葉は、同じようにエリファレットを案じる色がある。 「はい……」  きゅっと強く目を瞑った拍子に、つっと涙が零れ落ちた。草の上に、銀の雫が落ちて弾ける。  アルベルティーナはそれに気付かないふりをして、エリファレットの頭を引き寄せた。 「……長旅の疲れじゃ。ゆるりと休め」  耳に直接吹き込まれた声に、エリファレットの思考はぼやけてとろりと目が重くなった。 「……ただの偶然か……或いは、太刀に引かれて来たのか……どちらにせよ、看過出来ぬ事態じゃ……」  ゆっくりと落ちていく意識の底で、アルベルティーナの声が憂い帯びて何事かを紡いでいたが、エリファレットに届くことはなかった。

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